デンマークの芭蕉 (08/10/2010)

10月6日 
北白川に住むデンマーク人茶人の怪人ビスゴーさん宅へ,バナナの木を取りに行く。呼び鈴の無い玄関を開けて,ごめんくださいといいながら入って行くと,スンダのガムランが聞こえてきた。甘い歌声と子気味良い太鼓の響き。生成りの詰め襟を着たビスゴーさんが迎えてくれる。床の間に座ると,マッチをつけて,蝋燭とあんどんに火を灯す。柔らかな明かりが部屋に満ちる。デンマークには,火に感謝するキリスト教以前のお祭りがあるという。 

美人のお弟子さんが、薄いクッキーとお茶を持って来る。僕はいつもより丁寧に飲んでしまうが、ビスゴーはホイッって感じでアッサリと飲む。しばらくすると、美人さんがもう一度あらわれる。さっきのお茶は失敗だったという。おいしかった気がするが,あたらしいのを飲むとさすがに一段階違う味だった。ジャワやバリの話が尽きない。 

夏にコンサートに来た時に,イウィンさんがバナナの葉っぱが欲しいと言ってもらって帰った。家で蒸し菓子を作りその写真をメールで送ると,ビスゴーさんから「バナナが育っているから取りに来て!」と連絡があった。彼は、以前は一乗寺のあたりに住んでいて,そこにはバナナがいっぱいなっていて,これはそのバナナの生き残りなのだ、と。松尾芭蕉は,一乗寺に住んでいたことがあり,その縁で名前を 芭蕉にしたというのだという。バナナの和名は芭蕉だけど,ほんとかなあ?まあ、とにかく由緒あるバナナの木が、我が家へ来ることになった。春までは鉢の中,暖かくなったら,外へ植え替えてやろう。

やすりとハンマーと緑の石 (08/10/2010)

10月7日 
9時すぎに北野白梅町にあるウィークリーマンションへ,ガムラン調律師のスグンさんを迎えに行く。内線電話をしても、呼び鈴を鳴らしても出てこない。歩いて立命館へ行ったかと,大学まで行ってみるがいない。そうこうするうちに部屋から出てきた。なんとシャワーをしていたとのこと。 

10時前から調律を始める。鉄琴のようなサロンやグンデルは,ヤスリやグラインダーでどんどん削って行く。真ん中や端っこを削って、音高を変えて行く。5年間も倉庫に眠っていたので,かなり調律が狂っている。というか、5年前に演奏したときからかなり狂っていたのだ。僕は,スグンさんの横で、仕上がった鍵盤を磨いた。バトゥ・ヒジョウ(緑の石)をガソリンに溶かし,ぼろ布に染み込ませて鍵盤をこすり,後でからぶきをする。見事に輝きはじめる。くせになりそうである。輝きに魅せられるのだ。 

昼過ぎまでがんばって、休憩。この楽器は,5年前にジョグジャカルタ特別州から京都府に送られたのだが,紆余曲折があり、立命館におかれることになったのだ。見事なフルセット。今回,ジョグジャ京都友好提携25周年記念公演のために、調律をすることになった。全部やるのに4日間はかかる。今日で、3日目。なんとか先が見えてきた。 

ちょっとリッチな学食「カルム」で、サワラの西京焼弁当を食べて,午後からもがんばる。スグンさんは,鍵盤からお鍋型のボナンに取りかかった。ボナンは、主に叩いて調律をする。レールの切れ端にボナンを乗せて,ハンマーでがんがん叩く。かなり豪快だ。ガムランの調律は豪快に見えるが、実は繊細な面もある。グンデルを調律した後,調律する楽器とグンデルを交互に叩き,共鳴させて、音高を決めて行く。調律師の中には,セント値をはかる器具を使う人もいる。午後からのボナンは,調子よく進んで行った。僕もどんどんと磨いて行った。5時前に作業終了。 

この日,スグンさん以外の舞踊家や演奏家18人が来日した。はるかと地下鉄タクシー乗り継いで、どうにかホテルへ到着していた。みんな疲れきっていたが,7時からスペース天で練習があったので,演奏家4人とスグンさんと舞踊家のアリンさん、そして王様の弟のグスティ・ユドさんが、僕と真さんの車に分乗して、天へ向かった。 

9時まで練習をし,一行へホテルへ送り届け,とんぼ返りして,豊能の家へ戻ると,日付が変わる頃だった。星がきれいだった。カシオペヤが北の空に上がっていた。さてと、日曜日まで,忙しくなりそうだ。

晴美+佐久間ダンス@現代思想 (29/09/2010)

「現代思想」青土社10月号が発行されたよう。臨床哲学が特集されています。本間直樹さんと玉地雅浩さんが、「身体は見えるものである 理学療法からダンスへ」という文章を共同執筆している。これに際して,本間さんからインタビューを受けた。 
http://www.seidosha.co.jp/index.php?%CE%D7%BE%B2%B8%BD%BE%DD%B3%D8 

7月に、みんぱくで「侵蝕するガムラン」というコンサートをした。その中で,「ドン・テ・シペシ」というタイトルで、マルガサリ+Yangjah+たんぽぽの家メンバーで、即興パフォーマンスをした。それに向けて、たんぽぽの家で何度か練習を行った様子を撮影した映像を見ながらのインタビュー。 

たんぽぽに家きっての存在感あるダンスをする晴美さんと、ひさびさにダンスをした。向かい合ってしばらくやり取りがあって,ダンスがはじまる感じだ。どうして、ダンスがはじまるのか。その時の様子を、からだでじっくりと反芻しながら映像を見て,言葉にしてみた。 

本間直樹さんが、うまく文章にして書いている。 

以下引用 

・・・ ・・・ 

この記録を観ながら、Bは筆者に対して次のように語る。「僕とBさんとは、これまでも何度か一緒に舞台に立ったこともあり、二人のあいだに、表現することに向かうための基本的な信頼関係が成立している。(映像を観て思い出しながら)このとき、僕はAの振舞いを真似て発展させている。しかし、完全な真似ではなく、わざとちょっと変えてやる。ほんの数回やるとAさんが喜ぶ。自分の動きに近いことがパフォーマンスになっている、自分の動きが僕によって採用されている、ダンスにされているのをどうも喜んでいるようだ。その、ダンスが成立した感じになると、今度は大胆に動き出す。それだってダンスになるよ、と僕も動く。こういうのは普段の捌け口を求めるような、感情の吐き出しとは違う。遊びになり、ダンス化している。」 
 事前にパフォーマンスに参加することに同意がなされていることからも明らかであるが、AもBの両者とも、自分の身体が他者によって見られることを承認している。ここで見られるような身体の表現は、根源的に対他的な営みであり、動く自分の身体が、他者からの承認(あるいは否認)をともなう〈見えるもの〉であることを追求している。しかも両者は、互いに見ることと見られること交換しつつ、模倣による閉じた循環に陥ることなく、開かれた〈対〉を形成している。この開かれた〈対〉によって、どちらもが最初は予測していなかったような大きな振りやポーズが生成されているのである。そのことが両者によって喜びとして感じられていることは、このような生成の場に立ち会った者にとっても直接に感じとられる。その意味でも、二人だけの世界ではなく、開かれた〈対〉が演じられているのである。 

・・・ ・・・ 

晴美さん、目力あるね、最後の立ち上がってのダンスもすごいねえ。まねできないねえ。 


http://www.youtube.com/watch?v=_9lxGJvnZA0

扇風機のダンス 女子大生とダンス (10/09/2010)

明日,奈良と堺の高齢者の施設に行って,ワークショップをします。はしごです。午後は奈良,そして夜は堺。老人の方々とも一緒にダンスをしたいのですが,まずはケアをしているスタッフの方と仲良くなりたいと思っています。奈良へは前回下見へ行ったので、明日が第1回目。堺は,前回から始まったので,明日が第2回目です。堺の第1回目の様子を、少し書いてみます。 

8月20日 
大阪大学コミュニケーションデザインセンターの本間直樹さんと堺の高齢者施設へ。住宅街にある元別荘の1軒家なので、少し迷った。玉地雅浩さんと西村ユミさんも遅れてやってきた。スタッフの方4人にインタビューするところから始めた。リーダーの細川さんは独特のキャラクターで、本音トークの人だった。老人がみんなそろって体操したり,折り紙したりするのはおかしいやんってことで、この施設にはリクレーションが無いということだった。常駐スタッフは6人で,みんな若くてとても元気がよかった。僕は,ワークショップ用にペットボトルも持ってきていたけど,なんだか別のことがしたくなったので,部屋でぐるぐる回っていた扇風機で遊ぶことにした。 

http://www.youtube.com/watch?v=pAeiPwxRbwM

http://www.youtube.com/watch?v=XrunUF7YcAY]

細川さんによると、普段もリクレーションは無いが,突然社交ダンスを踊りはじめるおばあさんとダンス大会になったり,つねってくるおじいさんの攻撃を防御するところからダンスが始まったりすることがあるとのことだった。扇風機で遊ぶのは、馬鹿げているのかもしれないが,スタッフのみんなは大まじめに遊んでくれた。細川さんが羽根を壊して,ようやく終了になった。壊して終わるなんて,小学生みたいだなあ。 

8月24日 
ここのところちょこちょこ会っているコンテンポラリーダンスの砂連尾理さんに頼まれて神戸女学院大学へワークショップに出かけた。砂連尾さんは、伊丹のアイホールのプロジェクトで、市民や大学生とダンス作品を作っているのだ。 
http://saalekashi.exblog.jp/ 

10時50分に阪急門戸厄神駅に待ち合わせ。舞踊専攻があるなんて知らなかった。立派なスタジオもある。11時から16時までワークショップを行った。スタジオの裏からは,甲山と六甲山が見えた。声を向いの谷に放り投げてみた。それから空気を、甲山まで投げてみた。そして指と腕で六甲山をなぞってみたり,雲をなぞってみたり。スタジオへ戻ってからは,ペットボトルのワークもやってみた。普段バレエやコンテンポラリーダンスのレッスンをしている彼女たちにとっては、相当変わったワークだっただろうなあ。それでも興味津々でやってくれた。みんなありがとう。公演の成功を祈っています。 

屋上即興 (31/08/2010)

8月21日 
みんぱくでも一緒に踊ったYangjahさんとミュージシャンのJerry Gordonさんが主催する「屋上即興 Rooftop Improvisation」に参加。アメリカ村のど真ん中のビルの屋上からは,ムアッとする空気の向こうに月が見えていました。本間直樹さんが映像をYou Tubeに、写真家のJean-Yves Terreaultさんが写真をアップしてくれています。 

写真家のJean-Yves Terreaultさんの写真 
1枚目の写真を見ると,ゆったり踊っているように見えるんだけど,映像で見るとほんの一瞬です。写真家の視点,写真のおもしろさ。 

http://www.terophoto.com/Recent-Projects/Rooftop-Improvisations-10-08/13471619_rWPfQ#980978508_t4SAV 

JerryさんとアコーディオンのRyotaroさんとの即興。みんなとは初対面でした。 
この日は,出演メンバーをグループに分けて,何通りかやりました。このセッションだけでも30分以上ありましたが,例のごとく本間さんが、ここぞという10分を切り取ってくれました。編集はしていないのです。 

http://www.youtube.com/watch?v=vdrlqI49OVk#t=11

こちらは、最後のセッション。創作楽器のCharles-Eric Billardさんとお琴の今西玲子 さんと。最後の方で,JerryさんとYangjahさんも加わってきます。この日は,Won Jiksuさんも来ていました。彼とは,以前に京都文化博物館で伊藤愛子さんと3人でパフォーマンスをしたことがあります。この日のウォンさんの即興も最高でした。それと、映像にはないんですが,お客さんも即興で参加してくれました。後で聞くとくらげさんというダンサーで,クラゲダンスをふたりで熱演しました。 

http://www.youtube.com/watch?v=B8NdPz6cljs

YangjahさんとJerryさんとは、次は9月19日に天神橋7丁目にある「アートセントー」でやります。

つながっているお知らせ (30/08/2010)

8月29日 
大阪本町のインドネシアレストラン「チタチタ」でのインドネシア語のレッスンを終えて、船場アートカフェへ。8時間近くしゃべりっぱなしで頭と口のブレーキが緩んでいる。久しぶりにバリ舞踊の大西由希子さんと会う。最近思っているダンスのことをお互いにいろいろ話し,その後でからだを一緒に動かしてみた。10月に、大西さんは「石の花」という舞台を主催するんだけど,それについての相談を受ける。 

来週は,蚊取り線香のケムリを使ってふたりでダンスの練習をすることにした。 

・・・ ・・・ 

マルガサリが作曲を委嘱している三輪眞弘さんの本が出た。ガムランとダンスのための作品「愛の讃歌」についても書かれている。架空の民族音楽や宗教を生み出したり,演算を楽譜やダンス譜にしたりすることから、ダンスや音楽を作る三輪さん。コンピュータを駆使しながらも、からだにこだわる三輪さん。そして、ジャワの音楽やダンスをしながらも、そこに音楽やダンスの種を見つけて,風に乗せて別の土地で芽を出せないかと試みているマルガサリ。読むべし。なんと坂本龍一と中沢新一がでかでかと推薦文を書いている。 

三輪眞弘音楽藝術 全思考 一九九八-二〇一〇 
作者: 三輪眞弘 
出版社/メーカー: アルテスパブリッシング 
発売日: 2010/08/20 

http://www.artespublishing.com/blog/2010/08/03-726 

・・・ ・・・ 

マルガサリのメンバーで、僕の映像もいろいろ撮ってくれている本間直樹さんの本が出る。2010年9月2日発行と書いているので,出来たて前のアツアツ。本間さんの専門は哲学は哲学でも、リンショウテツガク。鷲田清一さんのこんな文章で本は始まっている。 

終わりなき途上で ー 臨床哲学という試み 

「倫理学」講座という看板を「臨床哲学」教室へと書き換えて、もう十年以上になる。そのときすぐにでも「臨床哲学宣言」なるものを世に問うべきであったかもしれない。が、「臨床哲学」としての一歩を踏みだすときに、わたしたちに共通に見えていたのは,たぶん、大学という場所におけるこれまでの哲学研究・哲学教育のあり方への疑問,というより半煮えの苛立だけであった。 

(つづく) 

ドキュメント 
臨床哲学 

鷲田清一 監修 
本間直樹・中岡成文 編 

大阪大学出版 

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I-Picnicを一緒にやっている作曲家の野村誠さんが、「プールの音楽会」というコンサートを愛知トリエンナーレでやったみたい。「湯気のダンス」、「水のダンス」、「ケムリのダンス」をやっている僕は、もちろん気になるわけです。この音楽は,きっとダンスでもあったのだと想像されます。野村さんとは、9月に我が家の付近で即興パフォーマンスと撮影を行うことになりそうです。 

野村誠さんのブログ 
http://d.hatena.ne.jp/makotonomura/20100828#p1 
ニュースにもなっています 
http://www.asahi.com/national/update/0829/NGY201008290016.html 

・・・ ・・・ 

いろいろ情報でした。どこかでつながっているようなニュース。

鳥の劇場 喫茶店のダンサー (12/08/2010)

8月11日 
大阪大学コミュニケーションデザインセンターの本間さんの新車アルファロメオで、奈良養護学校へ向かった。体育館へ入ってくと,たんぽぽの家のスタッフがほぼ全員そろっていた。中央には,鳥の劇場の中島さんとおぼしき人が腰に手をおいて,細身のからだに白いシャツを来て、眼鏡の奥に微笑みをたたえて立っていた。どうやら、5人ほどのグループに分かれて,喫茶店の小芝居をしているようだった。木曜日のガムランワークショップに参加している小松さんが、寝転んで熱演しているところだった。後で聞くと,「喫茶すべる」という店で,常連以外はすべって転んでしまう店なのだと言う。なんとそそる設定か。 

喫茶店の小芝居に続いては,泥棒学校という加古里子さんの絵本の一部をグループごとに演じるというワーク。たんぽぽのスタッフは,自らも歌を歌ったり,芝居をしたり,美術をしたりという多才な人が多い。その一癖も二癖もある面々が、ちょっと斜に構えたり、混ぜ返したりしながらも,中島さんの言うことを聞いて、エンジョイしていた。集団でなにかを作り出す喜びなのかな。自分を見つめ直すダンスのワークショップとは違う雰囲気だった。犬走りの上の窓は大きく開かれ,黒いカーテンが気持ち良さそうに舞っていた。みんなで、中島さんのお土産の鳥取のスイカを食べた。 

昼休憩を挟んで、5時間近いワークショップを終えて,たんぽぽの家へ戻った。2階のミーティングルームでホットコーヒーをいただく。メンバーは,たんぽぽの家の播磨さん,森下さん、井尻さん,北田さん、鳥の劇場の中島さん、斉藤さん,村上さん,演劇人の森永さん,そして、本間さんと僕。「言語から身振りへ」研究会が主催して,演劇のワークショップを行い,そしてそれについて振り返るというのが、今日の趣旨。 

この日のワークショップには、いくつかの明確な意図があった。見えないエネルギーのやりとり、キャラクターを演じることによって普段と違った生き生きとした存在になる,からだを通して人に読ませる表現にチャレンジする,あるいはその表現を読むことにチャレンジする、などなど。その意図通り,ワークショップの場は、生き生きとした場になった。しかし、研究会が目指すことは、その先のことである。プロのアーティストが参加する限定されたワークショップをより多く人に伝えることができるのかどうか,一見ケアと関係の無いように思えるアートが実はケアと深く結びついているんじゃないかということを探る,などである。 

夜の高速道路でアルファロメオを運転させてもらった。セミオートマの癖を探りながら,本間さんといろいろと話した。中島さんは、フィクションが作った集中の共有を観客に見せるのが演劇であり,そのフィクションや物語を作るには,人のからだを読ませたり、読んだりするのを前提とする意味や言葉の共有が必要であると。では、ダンスはどうなのかと。僕も,目に見えにくいものを観客と共有することは、ダンスにおいて大切なことだと思う。それを共有するためには,ダンサーの自然なからだの動き、あるいは感覚が必要となる。特に、重力やからだの構造に即したそうでしかありようのない動き。ここから外れて行くと,見る方はついて行くのが困難になって行く。ダンサーが勝手に動いて行く感じ。表現者と観客が持っているなんらかの共有をよりどころにしているのは、共通する部分である。また逆に言えば,意味や言葉の芸術と動きや感覚の芸術といった違い。ダンスには意味や意図が不明瞭なことも含まれる。時には無意識やトランスも含まれる。簡単に断ずることは出来ないけれど,僕が湯気と踊ったり,言葉が通じにくい人とダンスすることに喜びを感じるのは,そんなことが関係しているのかもしれない。車は渋滞を抜けて,本間さんのマンションに到着した。 

8月12日 
明け方、猛烈な風と雨で目が覚めた。強烈なシャワーに,家も森も田んぼも洗われるようだった。警報が出たので,いろいろと予定が変わった。明日会う予定だった砂連尾さんに電話すると、今日でも会えるというので、豊中の丘の見える喫茶店で会った。砂連尾さんは、舞台で大掛かりなセットや照明の中で作品発表をすることに違和感を感じているようだ。それで、僕がやっている炊飯器の湯気でダンスしたりするのに興味が湧いているとのこと。僕が,どうしてそんなことをするようになったのかを、考えながらゆっくりとしゃべった。自分自身も、整理されたり,発見したりすることがあった。 

砂連尾さんは、現在伊丹のアイホールでダンスの制作をしているとのこと。そこに参加している人に,一度ワークショップをして欲しい,という依頼だった。それから、その後も、なにか一緒にやりたいね,という話。あせらず、何度も会って話をしたり,からだを動かしたりしてすすめたいなあ、と。

ジョグジャスピリッツ (05/08/2010)

7月25日から8月3日 

インドネシアのジョグジャカルタにあるSLB 3 (Sekolah Luar Biasa 特別支援学校)で4日間ワークショップを行った。日本から参加したのは,ダンスの僕,美術の池上純子さん、犬飼美也妃さん、川本哲慎さん、遅れて到着の音楽の中川真さん、阪大のグループダイナミクスの諏訪晃一さんと学生の秋山浩太さん。ジョグジャ側は,ISI Yogya(インドネシア芸術大学ジョグジャ校)が協力してくれた。27日に,ISIの学生とともに,SLB 3へ。校長先生と担当のカルラ先生が迎えてくれる。こちらのワークショップの意図を説明する。障がいある人の芸術の可能性と共同作業がしたい、ということ。 

学校側は,聴覚障害の生徒10人を対象にしていた。事前に、ISIのジョハンさんを通じて、僕たちが知的障害の人たちと共同作業をしていることは伝えていたのだけど・・・。あらためて、いろんな障がいを持つ人とやってみたいと説明すると,ダウン症、視覚障害、下肢に障害のある5人も参加することになった。1日目は,とにかくまずは仲良くなることを目指して,ダンスで接近した。視覚障害の男子5名の中学生は、このメンバーでずっと一緒にからだでコミュニケーションをとって来たのだろう。5人がひとつの生き物のようだ。 

3回のワークショップを通じて,ダンスの種,手話をヒントにしたダンスやコミュニケーション法をいろいろと開発した。美術のワークショップを通じて,コスチュームと舞台のバックグラウンドもできた。4日目の最終日に流れを考えた。ある程度の構成を取りながらも,その場その時に感じることを大切にする流れ。即興性をいかに残すかということに、いつも苦労するのだけど,ここが肝要だ。常に、感じながら動いたり,音を奏でること。なんとかかんとか、リハーサルが終了。 

独立した部分としては, 
ダウン症のインダと佐久間のダンス 
聴覚障害男子5人と佐久間の群舞 
美也妃さんと聴覚障害のリンダとの通じにくい手話のコミュニケーション 
真さんと視覚障害のリサとの太鼓デュオ 
下肢障害のリサのキーボードソロ 
など。 

それに、 
手話を元にしたダンスを使った即興 
昆布ダンス 
波ダンス 
といった全員のシーン。 

31日夜 
美術の3人が作ったインタレーション展のオープニング。王宮の南広場に近いISIの大学院キャンパスの中庭が会場だ。副学長の挨拶に先だって,なぜか僕もあいさつをすることに。芸術は、目に見えにくいけど、耳に聞こえにくいけど大切なものを表現している。障がいある人は、からだを通じて常にこのことに立ち向かっているので,彼らの表現はおもしろいのだ、ということを伝えた。 

挨拶が終わって,蒸しトウモロコシ,バナナ,茹でピーナッツなどの軽食タイムになると,なんだかんだと人が増えてきた。2003年から長期留学中の金属造形の聖子さんやワヤン研究のゆうさんも見に来てくれた。美也妃さん、純子さんが自らのインスタレーションとのパフォーマンスをした。川本さんが篳篥で加わった。その後で,僕は即興のダンスをした。インスタレーションや木々や空や観客を感じてのダンス。ISIの学生の作品に絡んでると、柔らかな女性のシルエットが目に入った。飛び入りダンサーだ。しばらくするともうひとりの男性ダンサーが入ってきた。3人で空気を感じながら踊った。最後は、美也妃さんの作品の米粒を拾って,空に放り投げた。 

1996年の夏に、ダルマブダヤがインドネシアツアーを行った。僕は,留学中で1年が経過したところだった。ジョグジャのプルナ・ブダヤ(文化センター)での公演中,真さんが舞台袖にいた僕に向かって,「踊れ!」と叫んだ。即興ダンスなんてしたことのなかったけれど僕は,ジーパン姿で思わず舞台の飛び出て,汗だくになって,身もだえた。すると、長髪の男性が飛び出てきたのだった。すきあらば、踊るのがジョグジャスピリッツか! 

1日 
創造音楽祭が始まった。ジョハンさんが企画しているフェスティバルで、楽器にとらわれずに生活用品なども取り入れながら、先生や芸術家がリーダーとなって小学生と新しい音楽を作る試み。今年が第2回。留学当時からの友人ちのさんと息子も見に来てくれた。SLB 3と僕たちはゲスト出演をした。小学生5団体の後に,20分ほどの公演をした。当日急に休んだ人もいたりで,少しドキッとした場面も会ったが,みんなのびのびと楽しんでくれたように思う。 

公演後、弁当を食べながら、音楽療法のジョハンさん、芸術高校校長でダンスのスナルディさん、現代音楽の作曲家のアスモロさん,美術家でコミュニティアートのオンさんといったメンバーであれこれ話した。即興に対する日本とジャワでの捉え方の違い,インドネシアの芸術教育について,生活用品を音楽に使う必然性や疑問について,などなど有意義な話し合い。 

翌日の早朝には帰国。いつもながらジェットコースターの旅。 

今回ジョグジャで食べたもの一部ですが・・・ 
クイチャウ・ゴレン(焼ききしめん)@プジョクスマン舞踊団の近く中華Terang Mulyo(おばあさんがひとりで鍋を振り続けている) 
イカと鳥のカレー風煮物、揚げなすびなど(パダン料理)@プジョクスマン舞踊団の近くパダン料理Duta Minang(ちょっと高いがジョグジャでは本格的な部類) 
ソト・サピ(牛肉のさっぱりスープとご飯)@パタン・プルハン通りのパ・マルト(有名店の本店 安くて手堅くおいしい) 
カニのメダンソース、茹で鳥、アスパラとコーンのスープ、フヨウハイ、カイランの炒めなど@メリアホテル近くの中華レザット(行きつけの名店 最近は紹興酒が飲める!みたい) 
ナシ・グドゥ(ジョグジャ名物ジャックフルーツの煮物)@クラトン近くのウィジラン通り(お気に入りのユ・ジュンはご飯売り切れだった、残念!) 
ペンネのパスタ、本格ピザ@ティルト・ディプラン通りK's Meal(フランス人コックがいた ジョグジャではあり得ない水準!) 
ビーフン・ゴレン(焼きビーフン)@ティルト・ディプラン通りクダイ・クブン(味はまあまあ。美術の情報収集のついでに。テアトル・ガラシのダンサーと偶然出会う。) 
グラメ・バカール(淡水魚の照り焼き風)@IKIP PGRI近くのシーフードレストラン(池の上の水上レストラン) 
などなど、おいしくいただきました。今回は,早朝に家を出ると,夜中まで帰れませんでした。ほんとは家庭料理が一番なんですが・・・。 

そうそう、秋には、ISI Yogyaとの共同コンサートが9月18日に河内長野のラブリーホールで,Kratonとの共演が10月10日に立命館大学であります。その打ち合わせも行いました。また、お知らせいたします。 

水行 (22/07/2010)

7月22日 
暑い時はシンプルだ。あれこれ考えないのがいい。 

暑いからアイスをブナに買ってやる。 
暑いからビールを飲む。 

あれこれ考えない。 

終日、標高600メートルの野外で作業。頭がゆだっている。 
ブナを学童に迎えに行き,帰宅。標高450メートルの我が家もさすがに暑い。 

水シャワーを浴びようとすると,小桜インコのパリノも暑そうだったので、一緒にシャワー。バシャバシャかかると気持ち良さそうにジッとしている。 

こんなに暑い時も,ブナはひとり元気。 
部屋でサッカーだ!!プロレスだ!! 
暑い暑い。 

家の前に引きずり出した。 
2ヶ月ほど前から,理由は知らないんだけど,家のすぐ横の町の共同給水井戸が使われなくなった。電源は止まったんだけど,70メートルの井戸はコンコンと湧いていて、水がチロチロと我が家の前の溝を流れている。これが、冷たくてめちゃくちゃ気持ちいいのだ。 

水遊びが段々エスカレート。 
最後は水行に。 
冷たい水を浴びた岩が温もって、岩の匂いを発している。 


ブナが2階へシャワーしにいったので,あったかいコンクリートの坂に寝転んだ。藍色の暮れた空に青い雲が流れている。大家さんの裏庭の母屋の建て替えように植えているという檜の林からヒグラシの声が次から次へと音の波になって響く。阪急バスが終点の転回場でUターンをする。カラスが飛んでいき,フンをする。 

おい、プロレスしようと、2階から声が聞こえてきた。 
(写真は,大雨の後と、今日のもの)

音の力、そして、聴衆の力 (14/07/2010)

7月11日 
みんぱくでマルガサリのコンサート。ゲストはたんぽぽの家のメンバーとYangjahさん、特別出演にロフィットさん。 

プログラム 
・SANZUI 前編 (監修:佐久間新 )
・ドン・テ・シペシ (即興パフォーマンス) 

休憩 

・ロンドン・アリッ (ジャワ古典曲) 
・For Gender (作曲:David Kotlowy) 
・スカル・プディアストゥティ (ジャワ舞踊 佐久間ウィヤンタリ) 
・SANZUI 後編 (監修:佐久間新) 

最初のSANZUIでは、階段落ちをやった。からだが水のようになり、階段を滑り落ちていく。完全に水にはなりきれなかったので,すねに少し血がにじんだ。舞台の平面まで落ちていって,生き返って,ドン・テ・シペシへつなげた。即興パフォーマンスだけど、ここだけは決めていた。たんぽぽのナリミさんがいい感じで客席から登場した。その後,たんぽぽのHさんが車いすで出て来て、存在感を示した。と、すぐにMさんがHさんのぬいぐるみを取り上げた。ここのところ、こころに悩みを抱えて苦しんでいるMさんのパフォーマンスは混乱をもたらした。Mさんはほとんど練習に参加していなかったこともあり,やや想定外な展開に、舞台がねじれていく。しかし、即興は即興、なにもかも受け入れなければならない。しかし、Mさんがあくまでもマルガサリのメンバーとして登場したので,観客にはその混乱が分かりにくかったかもしれない。 

そういえば、つかこうへいさんが亡くなった。直接影響を受けたりはしてないけど、相当パワフルな人で,現場主義だったということを聞くと親近感がわく。役者のからだをもってすれば,階段くらい転げ落ちられるだろう。ダンサーのからだをもってしても,階段くらいは転げ落ちられる。その落ち方はちょっと違うかもしれないが。 

さてさて、なんとかかんとか前半終了。それにしても大変なプログラムである。ここまでで1時間近く。300人くらいの観客の多くが席を立つかもしれないな,と心配したが,ほとんどの人が残った。そして、後半へと続く。最後の最後にいいシーンが生まれた。SANZUIの終わり近くで、指に載せた菜箸で茶碗をちーんと鳴らすくらいの小さな音があらわれる。これだけの空間で、聴き取れるだろうかと心配したが,会場にいた全員が耳をすまし、この小さな小さな音を味わった。 

野村誠さんのブログにも書かれています。 
http://d.hatena.ne.jp/makotonomura/20100711#p2 

音の力,そして、聴衆の力を再確認。見に来てくださったみなさま,ありがとうございました。

介護とダンスとカエル (23/06/2010)

6月22日 
午後から、奈良のたんぽぽの家へ。「言語から身振りへ」ふれあう回路開発というプロジェクトの第1回の集まりがあり、僕はその委員に選ばれていたのだ。ことばを介さないコミュニケーションというのを考えよう,そして磨こう。そのためのワークショップも開発できたらいいね、ということなのかな。僕は,障がいのある人や子どもと即興で踊ったり,街や自然を感じながら踊るのも大好きなので,委員に選ばれたんだろう。だって、ダンスはまあ、言葉を介さないコミュニケーションだもん。 

たんぽぽの家のギャラリーHANAの1階のカフェで,舞台芸術プロデューサーの志賀玲子さんに久々にあった。以前会った時に比べて,とてもすっきりした顔だった。阪大のコミュニケーションデザインセンターの任期が終わって,ほっとしたとのこと。横の机では、2台のマックをつないで,細馬宏通さんがなにやらうなっている。マックが死にかけているそうだ。細馬さんとも久しぶり。以前,エイブルアートの冊子のために、僕にインタビューをして以来,ダンスに関する批評を頼まれることが増えたそうだ。細馬さんは、かえる目というバンドでボーカルをやっているので,僕は思わず,カエルの話を始めてしまった。ここのところカエルに取り付かれているのだ。 

細馬さんは、かえる目というバンドもやっているが,もともと生物の生態を観察するのが専門なのだ。最近は,人間の観察をしているらしい。だから、ダンスの批評も書けるんだろう。で、僕はカエルの話を始めた。 

おとといの夕方、フィリピン人音楽考古学者のアルセニオ・ニコラスさんが我が家へやってきたんですよ。ガムランとカエルの音を聞きに。彼は,1980年代にソロへ留学し,ガムランを学んだんで、僕とはこてこてのジャワ訛りのインドネシア語で話すんですよ。で、さっそく、自慢!のモリアオガエルの卵を見に,神社の前の池へ行って、参道の階段に座って耳をすましたんです。前の田んぼから,池の中から、いろんな種類のカエルの声が聞こえてくるんです。でも、なんだかちょっと違うんです。こころが沸き立ってこない。あれだけ、ここのところ僕をトリコにし続けてきたカエルの声が、もう終わってしまった、って感じなんですよ~。と、ほんとはもっと長いけど、だいたいそんなことを細馬さんと志賀さんに話した。すると、細馬さんが、それはね、卵を産んだからですよ,と答えてくれた。なんと、僕は、メスを呼ぶカエルのオスの声にほだされ続けていたのだ。5月以来、1ヶ月半近く。僕は,取り付かれていたのだ,カエルに!しかも、オスに!! 

・・・ ・・・ 

5月5日の今年最初のカエルに関するつぶやき 

豊中の実家の前のクスノキが衣替え中。新緑が水銀灯に光ってる。今日は,バティック(ジャワ更紗)の半袖シャツで出かけた。腕が火照っているが、夜になって吹く風がさましてくれる。地面に落ちたクスノキの乾いた葉っぱがカサカサいっている。 

豊能の我が家へ帰ってくると,トノサマガエルがシャウシャウシャウと大合唱。連休中に田植えがかなり進んだみたい。かすかに稲の匂いか,緑のニオイが風に運ばれてくる。 

・・・ ・・・ 

16時の予定時刻を少し回って,みんなで2階へ上がって,「言語から身振りへ」の集まりが始まった。細馬さんが、高齢者のケアハウスでの映像を見せてくれた。立ち上がるのが嫌なおばあさんがどうやって立ち上がったかという映像。介護の人の動きを細かく分析したプリントが配られる。介護している当の本人も気づかないほどのささいなこと、あるいは偶然的な要因も重なって,おばあさんはうまく立ち上がるのだ。ベテランのうまい介護者は、からだでそのことが分かっていて,自然にうまく動いてしまうのだ。ゴール前での、C ロナウドのように。 

食事を終えたおばあさんは、なかなか食器の片付けをせずに,食卓に座っている。食器を片付けるように声をかけられたおばあさんは,思わずお盆に手をかけ,立ち上がろうとするが,お盆を持ったままではうまく立ち上がれない。声をかけた介護者(と観察者の細馬さん)は、お盆を元のテーブルに戻すように言うが,おばあさんは聞かない。介護者は思い直して、お盆を、流しに近いもう一つのテーブルに置くように言う。すると、おばあさんはからだを回転させて,お盆を横のテーブルに置く。そして、介護者はさらに、お盆が落ちないようにテーブルの奥へ押すように言う。すると、おばあさんの右手が思わず盆から離れ,上体が前のめりになる。そこでおばあさんは立ち上がろうという思いが再びわき上がり,両手をテーブルにかける。その動きをとらえて、介護者はそっと背中に支え、おばあさんが自ら立つのをうまくフォローする。 

僕から見れば,即興ダンスと同じである。一旦あげたお盆は、元に戻すよりは活かしたい。流しにすこし近づけることによって,行為にプラスの意味が生まれる。うまくダンス(立ち上がること)に導きたいけど,手を取って,無理に踊ってもらっても,こころは踊らない。僕が,障がいのある人とダンスをしようとする時,僕は、彼らの手は取らずに,誘いかけたり、揺さぶったり,時には無視したりしてみる。こころをくすぐってみるのだ。もしなにかのはずみで、相手のからだの重心を動かせたら,それはダンスの大きなきっかけになる。少し動き出せば,あとはちょっとフォローすればいい。すこしづつ動きを共振させて行けばいい。 

細馬さんの発表の後で、出席者がいろんな感想を言いあった。たんぽぽの家の理事長の播磨さんは,老人は別の時間感覚を持っているんだから,それを尊重することも必要だ、と言った。会議室のバルコニーからよく見える西ノ京苑(特別養護老人ホーム)の館長やスタッフからは,最近の老人ホームは、きめの細かい介護が進んでいて,一方的に声かけをするんではなく,ご飯でも一緒に食べながら,日常会話をするんですよ、とか。朝食の場の雰囲気は,夜勤をしたスタッフによって、全然変わるんですよ、とか。なんとかして人生の最後を送るのにふさわしい場所を作り出したい、という思いがすごく感じられた。 

介護とダンスとカエルに、接点が生まれそうな予感。

ベッドと朝食のダンス (10/06/2010)


2007年の秋に、野村誠さんとイギリスへ行った。ハダスフィールドの小学校とエジンバラ大学でワークショップをした。ハダスフィールドでは、ケルマンメソッドという手法で演劇をしているボブ・ロックウッドさんの家にホームステイした。 

彼が,ベッドと朝食 B&Bで即興して撮影したいと提案した。でも、野村さんと僕は、ふーんという感じであんまりよく分かっていなかった。なので、ベッドでも服を着ている。ボブたちはちゃんとパジャマなのに。まあ、そんなところがおもしろい。 

ここのところ、自分のいろんな映像を見ることが多いが,イギリス人の目で撮られているからか,ちょっと心地いい違和感がある。2本目のは、僕の顔のアップがあるが,自分の正面からのアップを見るのは、なかなかすごい違和感である。鏡とは違う感じ。 

実験的な映像をどんどんアップしていますが,のんびりと気長に,気に入ったのを見てくださればうれしいです。 

まずは、タイトル。野村さんや僕が書いた字が。イギリス人には、おもしろく見えるんでしょうね。あと、将棋作曲の楽譜も出てきます。 
http://vimeo.com/11232324 

続いて,ベッド。最後は、なんだか空気が変わっていく感じ。ボブの娘さんレアちゃんの2段ベッドの上に、ホームステイしていたのでした。 
http://vimeo.com/7344552 

最後は、朝食。こんな家族はいない。このキッチンで日本食を料理しました。皿洗いをしているとボブの奥さんのタルが、「あなたたちは、ワークショップをして稼いでくれて,こうやって皿洗いを手伝ってくれたら,いつでも遊びに来ていいよ。」と言っていたので,また遊びに行きたいなあ。 
http://vimeo.com/11231217 

撮影/編集 Bob Lockwood

水のダンス まわりがダンスしはじめるダンス (28/05/2010)

5月24日 
大阪大学コミュニケーションデザインセンターのオレンジショップで「からだトーク/水のダンス」を開催しました。ゲストは、僕と理学療法士の玉地雅浩さん。ホストは、哲学カフェの本間直樹さんと看護学の西村ユミさん。 

オレンジショップの中では、大きなお鍋,グラスなどを使ったワーク。 

理学部裏の空き地とそこにできた水たまりでは、プール、バケツなどを使ったワーク。 

これをいつものごとく、本間さんが撮影。本間さんは映像作家でもあります。しかも、かなりユニークな。 
この日の映像は、鍋の中の水,グラスの水,プールの水,水たまりの波紋、といった感じで,人よりも水に焦点が当っています。 

しかし、これもダンスの映像だと思うのです。 
本間さんいわく,僕のダンスは,からだだけでなく、あるいはからだよりも、まわりの人や環境と関わって、まわりがダンスしはじめるように見えるところが、面白いそうです。 

本間さんとは,今後,映像作品も作っていこう、という話が盛り上がりつつあります。 

かなり渋い映像ですが、僕は気に入っています。 
水たまりのダンス 夜なんですが,実際よりかなり明るく映りますね。 
http://www.youtube.com/watch?v=xyPqHOcsecs 

グラスの水のダンス 手の甲にグラスを置いていると,ふっと、水と一体化する瞬間があります。そうなるともう、なかなか落ちない。 
http://www.youtube.com/watch#!v=ABvEJ3DZXFI 

鍋の水のダンス これは、重かった。もっとこぼさずにできると思ったけど,かなり難しかった。もう少し小さいので、またやりたいなあ。 
http://www.youtube.com/watch#!v=5MZxdW5u04A 

プールの水のダンス みんな気持ちよさそう。 
http://www.youtube.com/watch?v=jo-ZYgIlc68

セントーから銭湯、そしてカエルの集まり (25/05/2010)

5月22日 
14時45分 ブナの参観終了後,天神橋筋の元銭湯だったアートセントーへ向かう。ガムランエイドのイベントがあるのだ。15時45分に到着すると,何やらまじめなフォーラムが行われていた。元女風呂の脱衣所で、簡単にメークして,ジャワの衣装に着替える。ブナは、番台に座ってご機嫌。男風呂にはガムラン。湯船に沈んでいたり,洗い場に並んでいたり。まずは,ジャワの古典舞踊を踊る。そして、たんぽぽの家の岡部太郎さんのお湯を沸かすパフォーマンスに絡む。そこから、だんだんとダンスに。ブナが最後を締めてくれる。即興ダンサーのYangjahさんも来ていたので,絡んでくれるかと思ったが,インドの絵巻物の東野健一さん並んでニヤニヤして見てるばっかり。撮影は、本間直樹さん。彼がいるとどんどん何でもyou tubeにアップされていく。 

ジャワ古典舞踊 男風呂編  
http://www.youtube.com/watch?v=44_t_HZ26s8 
http://www.youtube.com/watch?v=U8p9baV8sB4 

岡部さんの湯気のパフォーマンス+佐久間新から、やがてお湯のダンス 
湯気ダンス 
http://www.youtube.com/watch?v=uGA0WGz3s58 
お湯ダンス 
http://www.youtube.com/watch?v=TV0KACRn230 

その後で、10月23日に千里万博記念公園の太陽の塔の下で行うウドロウドロにチャレンジ。ガムラン関係者が多かったからか、風呂場で反響がよかったからか,とてもいい音になった。駆けつけてくれた作曲者ホセ・マセダのお弟子さんのアルセニオ・ニコラスさんも大満足の様子。 
マセダ ウドロウドロ 男風呂編 
http://www.youtube.com/watch?v=B1GkHYHzGUk 

18時30分終了。風呂場でムンムン汗をかいたので,本物の銭湯へ。天六温泉。近くの定食屋でご飯を食べて,帰路へ。この日の晩は,ダンサーの砂連尾理さんが、我が家へカエルの声を聞きにいきたいと言い出したことから,盛り上がって、「朝までカエルの集まり」をすることになっていた。マルガサリの西田ゆりちゃんを乗せて,高槻の砂連尾さん宅経由で豊能の自宅へ。11時前には、全員が集合した。イウィンさん、砂連尾さん、西田ゆりちゃん、美術家できこりの小池芽英子さん、神戸大学コミュニティミュージック関係の三宅博子さん、中島香織さん、沼田里衣さん、シマダさん、デザインをしているカコさん。乾杯をして,ひとしきりおしゃべり。11時30分から、さっそくカエルの声を愛でに外へ出る。 

我が家の東側の庇の下には、サウンドアーティストの鈴木昭男さんの「点音(おとだて)」のプレートがある。そこに立って耳をすますための標識。左右5~600メートル、奥行き3~400メートルの棚田の水が黒く光っているのが微かに見える。山をバックにした何万匹のカエルの音がオーケストラのように聞こえる。それぞれの田んぼのカエルグループが音量を変えたり,違う種類のカエルが鳴き出したりするのが手に取るように分かる。それから、みんな思い思いに夜中の田んぼへ出て行った。空からは今にも雨が落ちてきそうだった。 

家の前の坂道に残った僕と砂連尾さんは、すこし坂を寝返りしたり,重力を感じながら,坂をゆっくりと歩いたりしてみた。一緒に踊る機会が、遠くない先にやってきそうな予感。 

まもなく、空から雨がしたたって来た。カエルの声は一層とにぎやかになった。田んぼにいるよりも、「点音」で聞いた方がにぎやかに聞こえた。部屋に戻って,能勢の地酒「秋鹿」などを飲みながら,いろいろと話が盛り上がった。1時間おきくらいに何度か、田んぼへ聞きに行った。雨はだんだんときつくなっていった。仮眠をとる人も。僕はなんとか起き続け,ちびりちびりと飲んだ。午前4時前,空が白み始めたので,みんなを起こして、最後のセッションへ。雨が降っていたので,奇跡のアンサンブルとはちょっと違う音だったが,すこしずつ鳥の声が増え,カエルの声は、よせてはかえす波のように、大小を繰り返しながら,すこしずつおさまっていった。

パーティ三昧 (19/05/2010)

5月11日 
石橋でやっているジャワ舞踊教室が終わってストレッチをしていると,野村誠さんから電話がかかって来た。コンテンポラリーダンスの砂連尾理さんの家にいるから、遊びに来ないかと。どうやら、野村さんは僕たちを引き合わせたいようなのだ。僕は昔から、「フットワークは軽く,迷ったら行く!」をモットーにしているので,この日は早朝から出ずっぱりだったんだけど,行くことにした。高槻のお宅まで車で45分。手巻き寿司を囲んでパーティ,野村誠さん、藪公美子さん、砂連尾理さんと奥さんの瞳さん。砂連尾さんがハイテンションで、山に登る話,パラレルワールドの話,波の話などを語ってくれる。こっちも、テンションをあげて、坂を転がる話,子どもが老人に見える話,田んぼがつながっている話などで、応戦した。 

野村誠さんがブログに書いている。理×新 
http://d.hatena.ne.jp/makotonomura/20100511#p1 

5月13日 
19時から梅田のヒルトン・ウェストの13階にあるニコンギャラリーで、柴田れいこさんの展覧会と写真集「Sakura さくら」の記念パーティ。ブナとイウィンさんも一緒。梅田のこっちの方へ来るのは久しぶり。すけすけガラスの向こうをライトに照らされたエレベーターがすごい勢いで行き交っている。田舎暮らしに慣れたからだがざわざわ騒いでいる。嫌な感じではない。 

柴田さんは,日本で暮らす外国人女性の写真を撮っていて,4年くらい前にイウィンさんを撮りに我が家へやって来た。雑魚寝で泊ってもらって,早朝の田んぼにイウィンさんと撮影に出かけた。それからしばらくして,黄金に輝く稲穂の前で曼珠沙華色のクバヤ(ジャワの伝統衣装)を着たイウィンさんの写真が送られて来た。とてもきれいに撮れていた。そして先日、立派な写真集が送られて来た。何十人もの外国人女性が民族衣装を来て,田んぼや神社や街角にたたずんだポートレイト集。 

会場に入ると何人かのモデルになった外国人女性が来ていた。イウィンさんも声をかけられる。当たり前だが,みんな日本語でしゃべっている。ごちそうが出た後でイウィンさんに、「踊ったら?」と声をかけた。はじめは迷っていたが,気づけば自分で段取りをして,僕も引っ張り出された。ワイングラスで伴奏しながら、ジャワの歌を歌った。イウィンさんは、ワインを少し飲んでいたので,気持ちよく踊っていた。 

5月14日 
18時30分から大阪市大の高原記念館で、西純一さんの展覧会「ホワイト・バランス ― ある肖像」とトークとパーティがあった。イウィンさんとブナも一緒。夕暮れの大阪市大は、アメリカ製のグリーンのガラスがはまった巨大基地のような図書館とヤシの木がすくっと伸びた前庭がある古い2階建ての本部の建築が対照的。高原記念館は、ヤシの横にあるオシャレなギャラリー兼研究室。 

西さんは,こころに病を抱えながら,森の中でひっそりと暮らしている。僕の家から歩いて行ける距離だ。山に暮らすようになって,お互い10年以上,なんとなく段々と親近感がわいている。去年,彼は中川真さんに100枚の自画像を描くように言われたそうだ。この春に、99枚描けたので,この展覧会になった。 

会場に入ると,すでにトークが進んでいた。白いジャージに白いジャケットの西さんと中川真さん。「西さん,ほんとのこと話してますか?」と真さんが突っ込む。壁には,99枚の自画像。どれにも、眼鏡が描かれているが、表情はよくわからない。自画像の上に絵の具が流れ出たシリーズが続く。「自画像を描いてしまうと,もう描くことを止めることは出来ないんです。」「自分は甘えていたんです。弱いんです。」そのことを受け止めて行く過程。自画像は、すこし晴れやかになって行く。 

僕も、即興ダンスをすると,もうこれは止めることはできない、と思う。ダンスが生きていること,生きていることがダンスになってしまう。 

トーク終了後はパーティ。市大の近所にある韓国料理屋のオードブル。これがなかなかおいしかった。チヂミ、タコ酢、タケノコのピリ辛,フキの炊いたん、きずし、などなど。作った人の顔が思い浮かぶ料理だった。 
西さんのウェブサイト 日記に展覧会の写真があります。 
http://www.justmystage.com/home/2222/index.html 

5月15日 
いい天気,暑いくらい。千里万博記念公園で、ウドロウドロの集まり。イウィンさんとブナと出かける。母と妹も来る。1000人集めないといけないので,家族総動員である。スタッフも含めると30人くらい集まった。まずは楽器作りから。で、実際に40分間演奏してみる。前回に比べると,ひとり一人が出す音や動きに工夫をしたり,まわりの音を聞けている感じがした。参加してくれた神戸大学でコミュニティミュージックを研究していた三宅博子さんが、「はじめは、となりの人や前の自分の音との微妙な差異や相互作用に気がいくのだが、それを越えて数十分たつと、疲れ&若干の飽きとあいまって、それまでと異なる耳の次元でぼわーっと全体が聞こえる瞬間がくる。」という感想を日記に書いてくれた。僕の場合は,最後の3分がとてもいい具合になって,全体が混じるのを感じた。参加してくれた砂連尾さんもそう感じたようだった。 

次回の集まりは、6月12日@千里万博記念公園みんぱくです。詳しくはチラシをご覧下さい。 
・ホームページ(チラシだけ) 
http://www.1000ongaku.com/ 

この日の様子は、you tubeで見られます。 
http://www.youtube.com/watch?v=DTDluM-3F-g 
http://www.youtube.com/watch?v=Lh03sQuPQwY 

一旦、イウィンさんとブナを豊能へ送って,難波へ。精華小劇場で、平田オリザさんが劇場法について語るイベントがあったのだ。秋には可決される模様とのこと。課題はたくさんだが,劇場を芸術家の手に、というコンセプトには賛成だ。平田さんは、この件に関しては腹をくくっているそうだ。腹をくくってる芸術家にとっては、チャンスになるかもしれない。河内長野ラブリーホールの宮地さんたちと居酒屋へ。現場の難しさ,役場の無関心ぶりを聞く。 

5月16日 
奈良のたんぽぽの家の理事長、播磨靖夫さんが文部科学大臣芸術選奨を受賞したその記念のパーティが、ホテル日航奈良であった。僕は、オープニングでことほぎの舞を踊ることになっていた。ブナを豊中の実家へ預けて奈良へ。200人の立食パーティ、おなじみの顔があちらこちらに。奈良知事,奈良市長,大阪大学学長の鷲田清一さんの姿も。会場には、張りつめた空気が流れていた,その空気をゆっくりと吸い込んで、ゆったりと舞った。会場にいあわせる人たちと一緒に、いい空気を作り上げて行く,そんな感じ。気持ちよく舞えた。 

わたぼうし音楽祭とエイブルアート・ムーブメント。アートを通じて、障がいある人たちに誇りと生きる勇気を与えた,あるいは、障がいある人たちのパワーで、アートに風を吹き込んだ,そんな功績が認められたのだろう。30年以上前から,ずっと戦って来た播磨さんとその戦友たちのパーティ。 

2次会は,たんぽぽの家のギャラリーHANAの2階。手料理が並ぶ。モツァレラチーズとオリーブ油がかかったトマト,こんにゃくのピリ辛,大根サラダ,長芋がのったおにぎり、などなど。ホテルの食事もうまかったが,手料理が何より。みんな、お酒も進んでいる。1週間、パーティ三昧だったが,いつも車で移動なので,僕はお茶。家へ帰ってひとりで乾杯した。

可能性あり、そして、全く進歩なし (12/05/2010)

~先日遊びに来たジャワ留学が決まったやぶちゃんに話した、ジャワの先生のエピソードの続き~ 


20年近く前,ソロの郊外にあるS先生の家へ、2ヶ月間舞踊を習いに通った。風神の子である勇者ビモの飾りがある鉄柵を入ると,古い赤いバンが停まっていて,中庭にはナマズを飼っている池がある。鳩の小屋もある。横には、背の高いパンノキがあって、時折天狗のうちわのような巨大な葉っぱが勢いよく落ちてくる。少し薄暗い居間へ入ると,緑の薄いカーペットの上にガムランが並んでいる。壁には、若かりし先生が正装した写真が掛かっている。ヒンヤリとして鈍く光った床の上でレッスンを受けた。汗がタイルに滴り落ちた。犬が横切ると,先生はキックを入れる。踊りのことなんて,まだまだ何も分からなかった。先生や先生の家に下宿していた芸術高校の生徒だったN君に言われるがまま、ただ汗を流した。 

S先生といると、魔法使いのように思えた。もちろん、舞踊はうまいし、楽器もとびっきりうまい。それだけじゃなくって、ちょいとヒゲをさすれば,ジャワのごちそうが出てくるし、ウィンクをすれば,鳩が舞い降りてくる。動かなくなったバイクもちちんぷいぷいと直すし,ちょっとした病気もツボを押して治しちゃう。音楽,ダンス,動物,バイクや車,おいしい屋台,近所のおじさん,王女様,影絵芝居の登場人物、誰とだって,何とだって,ツーカーで自由自在にコミュニケーションできるようだった。まあ、こちらがジャワのことが全然分かっていなかったと言うのこともあるが・・・。でも、いまでもその印象は変わらない。こんな人になりたいと思った。 

2ヶ月の滞在は、あっという間に過ぎた。舞踊で使う盾と剣を持って,帰国した。しかし、いまだにその盾と剣を使って人前で踊ったことはない。ブナのおもちゃになっている。ジャワ舞踊は、2ヶ月習ったくらいでは何もものにならない。それでも、もっと本格的にやってみたいなあ,という気持ちがジリジリと高まった。それから少しして,日本でB先生と運命的な出会いをして,留学の決心をするが、その話はまた別の機会に。それから3年経って,僕はジャワへ留学することができた。留学中,ジャカルタに住んでいるTさんのところへ遊びに行ったとき,こんな話を聞いた。 

Tさんも、以前はジャワ舞踊を習っていて,S先生とも親しい。僕がレッスンを受けた直後,S先生のところへ遊びに行って,僕の話になったらしい。「サクマが舞踊を習いにきたんだって?どうだった?」とTさんが聞くと,S先生は「Ada kemungkinan.」と答えたそうだ。adaは、あるの意。mungkinは、ふつうは「たぶん」という意味で使うが,keとanが付けば,可能性という意味になる。「可能性あり。」ということ。うれしい言葉だった。 


留学をはじめて2年半が過ぎた頃,僕はプジョクスマン舞踊団の週3回ある定期公演にレギュラー出演するようになっていた。日本人の僕がこんなところで踊ってもいいのかな?お客さんは,外国人が踊っているのは見たくないんじゃないかな?などと迷うこともあったけど,僕はすっかりジャワ人の中に入り込んで,舞踊三昧の日々を過ごしていた。裸電球の下で,すり切れて湿ったビニールのござの上に座って,メイクをし、緑色のカネ製の机に用意された衣装を身につけた。前奏が始まると,薄暗い楽屋裏で、革のかぶり物を1回ギュッと締め直して,プンドポ(舞台)へと静かに歩いて進んで行った。 

そんな時期,ある日プジョクスマンのプンドポで,若い舞踊家が集まって練習していると,N先生がやってきた。小柄で柔道家のようにがっしりとしているが,機敏な身のこなしをする芸術高校の舞踊科の先生。14世紀に栄えたパジャパヒト王朝の宰相ガジャマダのような、太陽の塔の彫刻のような、目と唇が力強い表情の人、今は芸術高校の校長先生になっている。そのN先生がプンドポから少し離れた階段に腰掛けて,何人かで談笑している。しかし時折,ギラリと目が光っている。こっちの練習が一段落付くと,僕の方へやって来て,言った。 

「Mas Shin, akhir-akhir ini kok tidak ada kemajuan sama sekali? (マス・シン 最近,なんで全く進歩がないんだ?)」 

かなりきつい調子だった。目の前が真っ暗になった。こんなことを言われたのははじめてだった。ジャワ人同士でも,舞踊の先生は教えるために生徒のからだに触れる時,「Maaf, ya(ごめんなさいね)」と言ってから、指先で肝心の骨のところをちょこっと押す。そんな温厚なジャワの先生が,こんなきつい調子になるのはとても珍しいことだ。 

何日もこの言葉が頭をグルグル回った。それから、1年近く経っただろうか。プジョクスマンのメンバーで芸術大学の学生だったA君の卒業祝いのパーティが,プランバナン寺院近くのA君の実家であった時,N先生を含めて3,4人の輪ができて,ゆったりとしたおしゃべりの場になった。ジャワの田舎の家のヒンヤリとした床に座って,甘いコーヒーを飲みながら,茹でピーナッツの皮を剥く,丁字タバコの甘い匂いが漂う。N先生は,すっかり僕をジャワ舞踊の仲間として感じ始めているような接し方をしてくれた。とてもうれしかった。あの時に言葉は、そういうことだったのだ。もう、お客さんとしてではなく,本気で舞踊をする仲間として接するよ、そういう叱咤激励だったのだろう。 

本気で自分を信じてやれば,そこには可能性がある。しかし、その目指す道はそんなに簡単なものではない。

グッド・モーニング いい朝 (28/04/2010)

4月28日 
6時、ふとんの中で3回大きく伸びをして,思い切って起きる。イウィンさんはもう起きているよう。カエルの音が控えめに響いている。相変わらず机の下で寝ているブナもガバッと起きる。キッチンのストーブに火をつける。水を入れたやかんをのせる。コップ1杯の水を飲む。AMラジオのスイッチを入れる。だしじゃこを入れておいた鍋をコンロにかける。ネギを小口切りにする。なるべく細く一定になるように、そしてリズミカルに。朝の手と腕の調整。炊飯器からは湯気が上がる。湯気のダンス。小さなフライパンもコンロにかける。油を敷く。たまごをふたつ割って入れる。ワカメを水に戻す。タケノコを切る。ワカメをざるにあげて切る。鍋が水が沸いたら、タケノコを投入。納豆を粘りが出るまで混ぜる。匂いが立ってくる。たまごに塩とこしょうを振る。ネギと醤油を入れて、納豆をさらに混ぜる。たまごがだいぶいい感じ。炊飯器が歌ったら、濡らしたしゃもじで切るように混ぜる。湯気が踊る。鍋にワカメとネギを投入。味噌で味を整える。目玉焼きも完成。やかんもシュウシュウ。紅茶を入れる。 

いっただきま~す!みそ汁がからだに染みわたる。シンプルな朝飯だが、近所のものばっかりなので、とてもおいしい。米は,イウィンさんのパート先のKおばあさんの田んぼから。味噌は,ブナと一緒に登校するHさん姉妹のおばあさんの手作り。タケノコは、裏の竹やぶで取ったもの。たまごは、近所の直売たまご屋さんのおいしいたまご。野菜は,日曜日の朝市で買った地元の野菜。贅沢だなあ。これがおいしいっていうのが分かるのに,10年かかったなあ。2000年のゴールデンウィークに引っ越してきたので丸10年の田舎暮らし。 

ブナを送って,田んぼのあぜ道の途中まで行った。いってらっしゃい。3人は振り向かない。僕も、今日はあっさりときびすを返す。濡れた道,青い空,ヒンヤリした風。ああ、気持ちがいい。ヒキガエルの声,鳥の声。シラサギが田んぼで何かを探している。ツバメが低空飛行。おなかが黄色い小さな鳥が土手に挟まれた畦に沿って、リズムを刻んで飛んでいく。小さな棚田に張られた水の上にはアメンボウ。坂道に、桜の花の軸が並んでいる。防火水槽の手前でカーブした溝には、花びらが貯まっている。手ですくい出すと,パイプから防火水槽へと水が流れ始め、花びらのアメンボウを水中へ沈めた。 

毎日がこんなにのんびりしているわけじゃないんだけど,今日は、ほんとに気持ちいい天気。1年に何回かの贈り物のような朝だった。

田んぼはつながっている (23/04/2010)

雨上がり。家の前の溝に、勢いよく山からの水が流れている。防水槽の手前で水があふれている。桜の花びらがたくさん集まっている。ブナの登校につきあって、Hさん姉妹との合流地点へ。桜の樹が濡れて苔が浮かび上がっている。妹のチアキちゃんが、おばあさんと一緒にやってきた。「ブナくん、おはよう。」といつもの低い声。「おはよう。」とブナ。お姉ちゃんのミユキちゃんが少し遅れてやってくる。今日は、途中までついていこう。 

二本の大きな杉が立つ神社の参道の前で,みんなでパンパン。Hさんのおばあさんが、「お地蔵さんがあって,となりの集落の人が毎日花とお水をかえてくれるんですよ。」と教えてくれる。今日は紫の花。田んぼの間の道を下っていく。おばあさんが畦にスコップを置いた。ワレモコウの葉っぱが茂っている。まあるい柔らかい葉っぱ。家へ持って帰って植えるそうだ。赤というか茶色というかたくさんの花が咲くんだって。僕は,ここで引き返す。おばあさんはスコップを畦に置いたまま、1キロ先の隣の集落の合流地点まで送って行くという。 

坂道を戻る。小さな道の両側から水音が聞こえてくる。斜面に並んだ田んぼには,土が固められた堤が築かれている。鍬一つでするんだろうが,左官屋さんのように見事な表面を作り、エッジをだしている田んぼもあれば,もう少しおおらかな堤もある。かまぼこ型のビニールの中には苗が育っているのだろう。田んぼの水はゆっくり動いて、堤の切れ目から流れ出していく。田んぼの脇の水路に出ると勢いを増す。石垣を組んだ田んぼの脇をどんどん流れていく。土管や塩ビ管を使ったジョイント部分もある。電車の線路の切り替えのような古い板や鉄板で、水の流れを変えるスイッチ部分もある。田から田へと水路が巡っている。道の下を通っているところもある。新しくコンクリートのマスが埋め込まれたところもある。水は下りながら,段々と集まって,小川ができはじめる。この辺りは,余野川の水源なのだ。 

足下の地面が、張り巡らされた血管のような水路と水でつながっているのを感じる。生きものの中を歩いているようだ。田んぼと田んぼはつながっている。川は流れ流れて、大阪湾へ注ぐ。海はインドネシアともつながっている。ジャワのパラントゥリティス海岸に注ぐオパッ川をさかのぼれば,ジャワの田んぼとだってつながっている、と妄想が膨らむ。 

4つの話 先生の家へ遊びに行く、の巻 (16/04/2010)


4月12日 
野村誠さんと藪公美子さんを迎えにJR亀岡駅へ。前日に、京都の下鴨神社で結婚式をしたそうだ。やぶちゃんは、結婚してもやぶちゃんでいくらしい。車で我が家まで20分。ソト・アヤム(ジャワ風鶏肉の酸っぱいスープ)を食べて,我が家からすぐのスペース天であるマルガサリの練習へ。ガムランの伝統音楽をしたり、即興パフォーマンスをしたり。天のまわりには,オーナーの黒田さんが植えた300本あまりの桜があって満開だったが,残念ながら雨模様。 

やぶちゃんは夏からジャワへガムラン留学することになっている。去年までは,イギリスのヨーク大学に留学して,コミュニティ音楽で修士を取ったばかり。ヨーク大学でガムランに出会ったのだ。イギリスはジャワのガムランが盛んなのだ。僕と野村さんも,エジンバラ大学でジャワガムランを使った創作のための講義をやった。野村さんとやぶちゃんは、その時に出会ったのだ。イギリスからジャワへ行くと、かなりのカルチャーショックだろう、ということで、ジャワのエピソードをいくつか紹介することにした。 

先生の家へ遊びに行く、の巻 

僕は舞踊やガムランの先生の家へ遊びにいくとき,アポは取らない。いきなり行くのだ。その方が,いさぎよい気がする。無駄足を踏む覚悟。そもそも僕が留学当時,ジャワにも日本にも携帯電話はまだなかったし、ジャワの多くの家には、固定電話もなかった。何人かの先生の家には、電話があったが,それでもたいがいはアポなしで行った。ただ、先生の邪魔にならないように,先生や家族の行動やスケジュールを予測して,曜日や時間の狙いを定めた。月曜日の夜8時頃だったら間違いない、とか。空振りすることもあったが,出直せばいい。ジョグジャは狭いんだし・・・。で、だいたいは外れなかった。ジャワの普通の人たちもこんな感覚だったんじゃないだろうか。先生の家に着くと,子どもやお手伝いさんが出迎えてくれ,入り口近くの応接間や椅子で待つことになる。甘いお茶やお菓子,時には揚げ物や果物が出てくる。でも、それには手を付けない。3回くらいはすすめられないとね・・・,なんだか日本人みたい。 

たとえば、こんなことが何度かあった。男性舞踊の名手のP先生を訪ねると、まずは奥さんが出てきた。お茶をだしてくれて,応接間で待つことに。家族の写真などを眺める。しかし、P先生がなかなか出てこない。中にいるのは、気配で分かるんだけど・・・。途中でバシャーン,バシャーンと水音が聞こえたりもする。2、30分すると,ようやく濡れた髪にくしを当て,ぱりっとしたYシャツに着替えた先生が登場するのだ。よくやってきたと言って,握手をする。いい香りが漂ってくる。 

何年か経って,P先生とかなり仲良くなってきたあるとき、こんな話をしてくれた。あのね、僕はほんとは丘の上の大きな家に住みたいんだよ。で、家の前のベンチに腰をかけて,ゆっくりとくつろいでいると,マス・シン(マスはジャワの敬称)がバイクに乗ってくるのが,遠くから見えるんだよ。そうすると、僕はマンディ(水浴び)をする。ゆっくり着替えていると,マス・シンがちょうどやってくるんだ。小さくても一国一城の主が客人を迎える、そんなのが理想なんだよ,と小さな家の小さな応接間で語ってくれた。P先生の舞踊には、なんともいえない風格が漂っている。いつもこころの中に、ワヤン(影絵芝居)に出てくるヒーローが住んでいるのだ。 

女性舞踊の大御所のT先生を訪ねる時はこんな感じ。お宅は、貴族の屋敷の敷地内にある。熱帯の陽が少し傾くと、子どもたちは鳩を空に放つ,尾っぽの笛がブーンブーンと青空に旋回し始める。僕は,約束していたレッスンの時間に、先生の家を訪れる。こんな場合は、もちろんアポあり。お手伝いの女の子に、僕が来ていることだけを伝言して,練習をする貴族の屋敷の一部であるプンドポ(ジャワの東屋)へ行く。待てど暮らせど、先生は来ない。1時間くらいはざらである。でも、この時間がなんともいいのだ。プンドポの天井の中心部には、繊細な彫刻が施されていて、1900という数字も読み取れる。100年間,何千人もの舞踊家が汗を流した舞台なのだ。その端っこに腰を下ろして本を読んでもいいし,ストレッチをしてもいいし,ただただボーっとするのもいい。たゆたう風を感じ,床や柱の感触を感じ,過去の舞踊に思いを馳せる時間。ジャワ舞踊には,1演目が2時間を越えるものもある。そんな舞踊を踊るには、それなりの時間感覚をからだに染み込ませる必要があるだろう。そんなことを知ってか知らずか,T先生は、サンプル(踊り用のスカーフ)を片手に,なにくわぬ顔でゆったりと登場するのだ。僕の経験上,ジャワの先生たちは直感的に,必要なことが分かっているのだ。マス・シンには、こんな時間が必要なのだと。 

つづく。

千の人、千の響き、千人が作る音の雲 (12/04/2010)


4月10日 
みんぱくで「Udlot-Udlot」の第1回目のリハーサル。フィリピンの作曲家ホセ・マセダの作品で、1000人が竹や声を使って演奏する。10月に、太陽の塔の下でやろうと準備中。マセダの弟子のアルセニオ・ニコラスさんが研究員として,みんぱくに来ているので,講師としてきてもらった。この日に集まったのは、イベントを主催する千里文化財団の織田さんと西澤さん、制作チームウドロ組(仮称)のHIROSさん、小島剛さん、岩淵拓郎さん、僕、それから、声をかけた友人たちで、総勢30名ほど。子どもたちも数名。 

まずは、竹を切るところから始める。楽器作りが終わったら,楽譜の説明,パート分け、パート練習。そして、リハーサル。曲は40分間。僕は拍子木のパートに入った。 

トントン トン トントン トン トントン トン 

延々と繰り返す。歩きながらでもいいし,踊りながらでもいい。みんなで気を合わせて,早くならないように気をつけながら。でも、40分もやっていれば,だんだん考えることもできなくなっていく。次第に,音や動きに身をまかせるようになっていく境地。 

竹や声のパートは、もう少し忙しい。今日は30名だったが,本番は1000人、30倍である。どんな音が立ちあらわれるだろうか。 

本番へ向けて,当面、毎月1回練習をします。練習に参加しなくて,本番だけの参加も可能ですが,万博公園はとても気持ちがいいので,ぜひ遊びがてら練習にお越し下さい。練習というよりピクニック、ウドロ・ウドロ ピクニック。毎回が、ピクニックのような練習です。練習に来た人が,友達を誘って,またピクニックにやってくる。増えるとますます音が面白くなって,もっとたくさんの音の雲が聞きたくなって,また友達を誘う。そんな連鎖が生まれるようになればいいなあ。 

次回の練習、いえ、ウドロ・ウドロ ピクニックは、 
5月15日 14時~16時 万博公園 民族学博物館(みんぱく)特別展示室前集合 
参加費は無料です。連絡をいただけると、みんぱくの入場券を先着順でプレゼントいたします。 
http://www.minpaku.ac.jp/museum/information/access.html 


長いですが,以下に、企画書の一部を載せます。 
制作チームのウドロ組(仮称)は、HIROS、小島剛、岩淵拓郎、佐久間新。主催は,千里文化財団。 

以下引用文 

・・・ ・・・ 

千のひと、千の響き,千人が作る音の雲 

ひとりひとりの作り出す音は単純だが、みんな集まると想像を超えた音の雲ができる。それは音を通した新しい経験、新しい音楽のかたち。 

わたしたちは下記の要領で、「ウドゥロッ・ウドゥロッ Udlot-Udlot」公演を計画しています。多数(目標1000人)の演奏者が必要なため一般の人々の参加者を募集したいと考えています。企画主旨をご理解いただき、参加者募集活動にご協力いただければ幸いてす。 

■公演名/みんなの音楽(仮) 
■演奏曲/ウドゥロッ・ウドゥロッ Udlot-Udlot (ホセ・マセダ Jose MACEDA、1975) 
■日時(候補日)/2010年10月23日(土)、24日(日)、30日(土)、31日(日) 
午後13:00~16:00(本番40分、リハーサル) 
■会場/万博公園お祭り広場 
■出演者/1000名 
■使用楽器 
カルタン(打ち合わせ棒)・・・300セット(径30×長さ400~500mm/5種サイズ) 
トンガトン(搗き棒)・・・400セット(径45mm~55×300~400mm) 
ウンギヨン(通気孔つきフルート/ギロを兼ねる)・・・400セット(径15~17mm×150~200mm) 
声・・・300 

■企画主旨 
 フィリピン人の現代音楽作曲家、ホセ・マセダ(1917~2004)によって1975年に作曲された「ウドゥロッ・ウドゥロッ Udlot-Udlot」には、「30人から数千人にいたる演奏者のための音楽」と付記されていま すが、この曲は専門的な音楽訓練のない人々でも演奏に参加することを当初から想定して作られたものです。 
 現代のわたしたちは、長い歴史をもつ伝統音楽はかろうじて残っているものの、ほとんどが西洋的システムに基づいて作られた音楽に取り囲まれています。また、音楽は他の生産物と同様に「商品」として生産され流通しています。しかし音楽は、専門家だけに委ねられるものではなく、本来、誰でも作ったり歌ったり楽しむことのできる人間の基本的な表現行為であり、人間のあらゆる活動と環境に密接なつながりをもつものです。東南アジア各地に広がる部族の音楽を調査したマセダは、そうした音楽の本来的意味と、西洋的システムとは異なる「東南アジア固有の音楽のアイデアを見いだし、それを基盤・出発点として新しい音楽をつくろうとしたのである。決してヨーロッパの模倣ではない、自前の音楽をつくることが彼の目的であった」(中川真)。その一つが今回の作品「ウドゥロッ・ウドゥロッ」です。マセダのこうした姿勢は、欧米のいわゆる現代音楽作曲家やアートに関心のある人々にも評価され、作曲された1975年にマニラで初演されたあと、日本(1991)、ドイツ(1995)、ブラジルなどでも演奏されました。 
 今回わたしたちが「ウドゥロッ・ウドゥロッ」を計画したのは、 
1.多くの人びとが一つの目的を共有し祭り空間を味わう。 
2.東南アジア固有の音楽思想を演奏を通して体験し、異文化の理解を深める。 
3.千人の作り出す濃密な音の響きを楽しむ。 
4.新しい音楽芸術のあり方を、聴衆としてではなく演奏することを通して体験する。 
5.公演本番までのワークショップの積み重ねを通して恊働の意味を考え直す。 
6.壁を取り除く-障害者、外国人など 
 以下は、作曲者自身がこの作品について述べたものです。 
-----この音楽は単に無数の人びとが一つのメロディーを演奏したりうたう国歌のようなものではなく、むしろ多くの人びとにそれぞれ異なる音を演奏してもらうことによって、その音を拡大したり音量を大きくしたりしないで音を屋外でばらばらに散乱させるような音楽なのだこの音楽をこれだけ多人数に分担してもらうためには、演奏するものが単純な音で、しかも音楽が単純すぎて魅力のないありきたりのものにならないようにしなければならない。・・・ここでの重要な音楽要素は音の反復あるいは連続の原理の使用であり、これがこの作品の基本構造をなす。・・・この音楽を楽聖に演奏させることには、新しい境域的な価値がある。『ウドゥロッ・ウドゥロッ』のなかで一対の棒によって演奏されるリズム・パターンは、連続した三音、休止一つに続く一音で、全体では五拍のリズム・フレーズになる。五の単位で数えることは東南アジアの多くの音楽でも、また大部分の西洋音楽でもなじみのうすいものである。五拍リズムの意識は演奏者にも聴衆にもひとしく時間の別な尺度を紹介し、そこから物事の新しい秩序、あるいは人びとの別な思想や秩序にみちびくような新しい考え方を知らせることになる。楽器による「ピッチのない」音(あるいはうたえない音)や、音楽をするのに安価な地元の楽器をつかうこと、一音だけのメロディーという概念、リズムのない音楽や、音符のかわりに数字と記号の組による楽譜をよむことにも、教育的な価値がある----『ドローンとメロディー 東南アジアの音楽思想』(ホセ・マセダ著/高橋悠治編・訳、新宿書房、1989) 
【ホセ・マセダ José MACEDA(1917~2004)】 
 マニラに生まれる。パリのエコール・ノルマル音楽院でピアノ、作曲理論、アナリーゼを学び、その後フィリピンでピアニストとして活動。コロンビア大学で音楽学、ノースウェスタン大学で人類学を学ぶ。1952年頃よりフィリピンの民族音楽のフィールドワーク。1954年頃にミュジーク・コンクレートを手がけ、1958年にパリ国立放送局のミュジーク・コンクレート・スタジオにて制作、ここでピエール・ブーレーズ、カールハインツ・シュトックハウゼン、イアニス・クセナキスらと知り合う。1963年にカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)にて民族音楽学の博士号を取得、同じくこの頃より作曲活動を本格化、マニラにて、エドガー・ヴァレーズやブーレーズ、クセナキスなどの作品を指揮・演奏するコンサートを1969年まで開催。 
 民族音楽学者として、東南アジアの音楽のフィールドワークを行い、多数の論文を発表する一方、東南アジアの楽器を用いた作曲を手がける。主な作品に、116人の楽器演奏者、100人の合唱と25人の男声のための「パクサンバ」(Pagsamba, 1968年)、100台のカセットプレイヤーのための「カセット100」(Cassettes 100, 1971年)、20のラジオ局のための「ウグナヤン」(Ugnayan, 1974年)、数百人から数千人のための「ウドゥロッ・ウドゥロッ」(Udlot-Udlot, 1975年)、10のフルート、10のバリンビン、10の平面ゴングのための「スリン・スリン」(Suling-Suling, 1985年)など。1990年代以降は管弦楽のための「ディステンペラメント」(Distemperament, 1992年)、管弦楽のための「リズムのない色」(Colors without Rhythm, 1999年)など、管弦楽やピアノのためにも作曲した。(Wikipediaより) 

・・・ ・・・

桜、そしてSakura (09/04/2010)

今日は,ブナの小学校入学式。いよいよ学校。桜がなんとか間に合った。天気も快晴。 

大きな窓のある明るい体育館、歯切れのいい女の先生の司会で式が始まった。なんと第135回の入学式とのこと。校長先生のお話。 
・友達と仲良くしよう。 
・挨拶をしよう。 
・自分でできることは自分でやろう。 
式が終わってクラスルームへ、1年1組。1組しかないんです。担任は僕と同年代のやさしそうな男の先生。教科書をもらったそのあとは,運動場へ出て,みんな大はしゃぎ。式の緊張からの解放といよいよ始まるっている期待感がいっぱいなんだろう。 

ブナは,4月1日から育成室、通称学童へ行っている。学童では,宿題の時間がある。1年生は宿題がないので,紙に計算問題と時計の問題を書いてあげた。初日に帰って来ると,答え合わせをしてほしいと言うので,見てみると、何問か間違っていた。「よくできたけど,惜しいのもあるね~。」と直してやると,本人はすごくショックを受けているようだった。ああ、人生ではじめてのテストだったんだ! 

これから、勉強が始まる。テストも始まる。勉強は楽しいんだって、思えるようにしていかないといけないなあ。反省、反省。 

昨日,写真家の柴田れいこさんから、「Sakura 日本人と結婚した外国人女性たち」(日本カメラ社)という写真集が送られてきた。4月4日読売新聞の文化欄「よみうり堂 本」でも紹介されていたようだ。 
http://dc.watch.impress.co.jp/docs/news/20100310_353673.html 

4年前の稲が黄金色に実った頃,柴田さんが泊まりがけで我が家へやってきた。翌朝,クバヤに着替えて,田んぼで撮影したのだった。東京での展覧会は終わってしまったよう。5月には、大阪で展覧会があるようなので、また告知します。 

ブナは、明日は6時起き。3キロ徒歩50分の通学が始まる。僕も大変,しばらくはお弁当作らなきゃ。

結婚パーティキャンプで、ファイヤーダンス (05/04/2010)

4月3日 
お弁当を作って、イウィンさんとブナとともに8時30分に出発。奥多摩のキャンプ場で、野村誠さんと藪公美子さんの結婚記念キャンプパーティがあるのだ。9時30分に向日市の祓い所公園着。ちょっといわくありの場所らしい。マルガサリの西真奈美さんと合流の予定だが,病院へ行っているとかで少し遅れている模様。10時過ぎに、西さんと合流。京都南から名神へ入る。中央道へ入り。恵那峡で小休憩。八ヶ岳を越えて行く辺りで、山小屋にいる坪井ゆゆさんに念を送る。が、後で見た彼女のブログによると,下山中とのこと。車内ではしりとりや歌合戦。ブナの語彙数がかなり増えてきた。 

中央道の大月インターで下りる。1300円。安い。出たところのローソンで牛乳10本を買い占める。野村誠さんに頼まれていた買い物。何に使うのだろう。くねくね国道で山をいくつか越えて行く。雪も残っている。2時間近く走り、17時30分頃ようやく奥多摩のキャンプ場に到着。野村幸弘さん、片岡祐介さん、尾引浩志さん、柏木陽さん、樅山智子さんとか知った顔も見える。コック長は美術家の島袋道浩さん。肝心の二人は山を散策中とのこと。すでにいくつもあるかまどからは煙が上がっている。ブリの一夜干し、塩ゆで豚,各種サラダ,尾引さんが釣ったニジマスの薫製、チーズの薫製などなど。ビール片手にいろいろつまんだ。島袋さんのブリは絶品,今出ている「暮らしの手帖」で、なぜか美術家の島袋さんがひものの作り方を講習しているらしい。 

野村さんとやぶちゃんも戻ってきた。しばらくするとキャンプファイヤーの時間。みんなが河原に下りて行く。かまど火の番をするために、ひとりで残ることになった。星がきれいだ。谷底から鍵盤ハーモニカの音が向かいの崖に跳ね返って聞こえてくる。気分がうずうずしてくる。料理番が得意な広崎さんが交代に上がってきてくれたので,河原へ下りて行く。段々近づいて行くと、野村さんが、 

「佐久間さんどこですか?まずは、佐久間さんの波からやりたいんですけど・・・。」みたいな声が聞こえてくる。ちょうどいいタイミングだったのだろうか? 

火がゴオゴオと燃え,後ろの谷からは冷たい風が吹いてくる。その上に北斗七星が瞬いている。火の周りに赤くなったみんなの顔が並んでいる。ブナは石の上に腰をかけているようだ。野外で、火を挟んで、波を送るのははじめてだったが,周りの空気を感じながら,ゆっくりと波を送った。なかなかみんなに届きにくいかもしれないが、ゆっくりと何度も送った。右側から深い呼吸の音が聞こえてきた。作曲家の近藤浩平さんかもしれない?ほぼ同時に,左から鍵ハモの呼吸も聞こえてきた。火の周りをゆっくりと回った。やぶちゃんが仮面を渡してくれた。ヒモもなく、くわえることもできなかったので,左手と右手とで交互に押さえながら,火の周りを舞った。仮面のおかげで顔が熱から守られた。火の粉とも舞った。時折,杉の小枝で、火の粉を巻き上げた。時折,誰かが背中に乗った火の粉を払ってくれるようだった。仮面をしているので,周りがほとんど見えないのだ。 

ダンサーの遠田誠さんと高須賀千江子さんが出てきて踊りだした。僕はちょっと休憩。白神ももこさんが出てきて,僕を招いている。おばあさんになって二人で踊った。どんどんばからしくなって行く。キャンプファイヤーなんだから仕方が無い。おなじアホならおどらなソンソン。 

火が収まってきた。途中で気づいたが,左目のコンタクトレンズが無い。僕は目が出っ張っているので,仮面を付けると当たって落ちやすいのだ。夜中の河原,どうしようもない。火が収まったので,上のかまどへ戻った。ロッジに移って、集まった人たちのパフォーマンスが始まった。僕は、厨房が気になるたちなので、かまどに残ってご飯のお釜の番をした。水を調節しながら,この日、厨房で大活躍だった広崎さんとともに,ご飯を炊いた。カレーも温まり,夜食の準備が整った。ブナと音響の専門家の五島昭彦さんの息子のだいちゃんが、辛くない方のカレーをお代わりするほどたくさん食べた。 

ロッジへ戻ると、やぶちゃんと桜美林大学で同期だった友人たちのアイリッシュバンドの演奏が始まっていた。ダンス音楽である。踊るしかない。吉野さつきさんとノリノリで踊った。その後は,池田邦太郎さんの音楽の話。元小学校で音楽の先生だったけれど,学校を辞めちゃって,音楽を追求しちゃった人。テーブルの上にある一番搾りの500缶で、あっという間に宇宙の音が聞こえる楽器を作ってしまったり。ストローをどんどんつなげたり,切ったりして、ユーモアにあふれるのに、管楽器の根源を考えるようなパフォーマンスをすごい勢いでやったり。すごい迫力である。その後は,あいのてさんのコンサートがあったり,島袋さんの輪ゴムくぐりがあったり、宮田篤さんのらくがき作曲があったり。中村未来子さんのチャイも出てきた。牛乳10パックはここに使われたのだ。すっかり、いい時間になったので,屋根裏部屋に上がって,あったかい布団に潜り込んだ。 

4月4日 
朝ご飯を食べて,片付けをして、チェックアウト。河原へ出て,みんなでコンタクトレンズを探してもらった。みんなが一心に石を見て,静かに注意深く動く様子はダンスであり,石の音や水の音は音楽だった。河原でコンタクトを探すにはかなりいいメンバーだと思ったが・・・。片岡さんが小さな青い丸いガラスを拾った,コンタクトが熱で変成したのかもしれない・・・。 

キャンプ場のすぐ横のもえぎの湯へ。さっぱりして、みんなとさようなら。こんな結婚パーティキャンプは、なかなか無いだろうな。本当に楽しく,気持ちのいい人ばかりで、いい時間を過ごせた。野村さんとやぶちゃん、いや、やぶちゃんじゃなくなったのかな?公美子さん、ありがとう。 

帰りは、八王子方面へ下りて,日の出インターから高速に。行き帰りの車中でブナにした話。人間が夢を見るのは,寝ている間に目がめだま親父のように飛び出して,あっちこっちへ行くから見るんだよという話。家の近くの妙見山トンネルは工事がうまく行かなかったので,生け贄の子どもが必要になり,村の会議でブナが選ばれたけど,父ちゃんがイノシシを捕まえて,毛を剃って,服を着せて、人間の子どもに見立てて生け贄に埋めたから、ブナが助かった。それで、今でもトンネルの真ん中の水たまりには赤い血が滲んでいるという話。このふたつは、半分信じているようである。 

西さんの恋の話なども聞きながら,少し込み気味の高速をひたすら走り,22時過ぎに家にたどり着いた。

音楽考古学者、そして、二月堂の五体投地 (26/03/2010)


3月4日 
みんぱくにアルセニオ・ニコラスさんを迎えに行く。アルセニオさんは、フィリピン人の音楽考古学者。みんぱくに研究員で来日中。東南アジアの海域に沈んだガムランの研究をしているという。1970年代にジャワ島のソロにガムラン留学をしたことがあり,インドネシア語がペラペラである。関西でのガムラン活動も見てみたいと言うことで,たんぽぽの家でやっている僕のワークショップを見学しに行くことに。本間直樹さんもいるので、車中は英語とインドネシア語のチャンプール。 

たんぽぽの家では,月に2回木曜日の夜に,音楽とダンスのワークショップをしている。本間さんと行くようになって,もうすぐで4年。ここでは、ジャワの古典舞踊をするのではなく、ジャワ舞踊からヒントを得たからだの動かし方にいろいろチャレンジしている。僕自身、ここでのダンスワークからたくさんのことを学んだ。自由にやらせてもらって,ほんとうにありがたい。その中でも,昨年から取り組んでいるのが,振り子奏法をはじめとするダンスと演奏が一体化した「さんずい」プロジェクト。椅子や床の上で,振り子になって揺れる。揺れた先にガムラン楽器があり、当たったり当たらなかったりする。音が鳴ったり,鳴らなかったりする。鳴らないことも受け入れて,音とともにただ揺れるだけという境地に達してくると、かなりいい音が鳴るし,いい動きになる。が、これがなかなか難しい。たんぽぽの家のみなさんは、だいぶ熟達してきている。こんな風変わりなガムランやっているチームはなかなか無いだろうなあ。 

そんな風変わりな様子を、アルセニオさんは興味深そうな顔でじっと見つめている。鼓膜を悪くして、音楽をあきらめた彼が,高野山の根本大塔の法輪の先に吊るされた鐘が風に揺られてささやくような、ガムランの音に耳をすましている。この音だったら、耳に悪くないそうだ。この日,アルセニオさんが奈良に来た目的はもうひとつ、東大寺二月堂のお水取り。ワークショップを終えて,たんぽぽの岡部さんも一緒に4人で二月堂へ向かった。しかし、京都へ帰る電車がギリギリになったので,アルセニオさんは帰ることになった。申し訳ないと謝るが,いいワークショップを見れたと全然気にしていない感じ。気遣いの人だなあ。笑顔に救われる。再会を約束して,JR奈良駅でさようなら。 

二月堂では、3月になるとお水取りがある。1200年以上,1年も欠かさずに毎年続けられている。2週間に渡って,お松明や声明が続けられ、3月12日の深夜にお水取りが行われる。僕は,20年前に中川真さんにすすめられて,以後何度か見に来たことがある。その時に、印象に残ったのが,深夜にお堂の中で行われる五体投地だった。この日も、久々にぜひ見てみたいと思っていた。 

二月堂の裏辺りに着いたのが,11時頃だったか。小雨の降る静かな境内を歩き,階段を上がって二月堂へ。声明が低く、響いている。確か,お堂の周りの扉を開けると小さな部屋があって,そこからのぞき見られるはずだった。20年前は,北側の局から見た記憶がある。3人で入り口を探しながらグルリと回っていくと、西側の見晴らしのいい舞台へ出た。雨の夜景に思わず息をのんだ。木の扉がわずかに開いていた。どうやら中にも先客がいるらしい。そぉっと中へ入った。10名ほどの先客がいる。目が慣れるのを待ち,ゆっくり正座のまま前ににじり寄って,堂内とを隔てている格子に近づいた。声明が鳴り響き,中央に掛けられた白い幕に、歩き回る僧侶の影が映っている。ワヤンのようだ。やがて、ひとりの僧侶が目の前にやってきた。 

ターンッ! 

と音が鳴り響いた。床の上に置かれた長い木の上に勢いよく倒れ込んでいるのだ。久しぶりに聞いた音だが、これは、 


振り子奏法の音 
「さんずい」の中の倒れ込み奏法の音 
坂道プロジェクトの坂での寝返り 
ジャワ舞踊の波の動き 

ともつながっている音であり、動きだった。 

和太鼓奏者で黒拍子の安田典幸さんは、「太鼓は、ほんとはバチを投げつけた方がどれだけいい音がするか。手は,邪魔なんですよ。」と言っていた。 
それをヒントに生まれた倒れ込み奏法。自分を消し去って,バチとともに鍵盤に落下する奏法。楽器の持つ最大限の音を引き出す。 
そして、バチ振り子奏法。バチをやじろべえのように指の上にのせて,自分の力を消して,バチの揺れだけで音を鳴らす奏法。こちらは、最小限の力で、バチと鍵盤が出会って響きあい、小さないい音がなる。 

動きでいえば,こんな感じ。 
坂道に立てば,重力を感じる。からだを楽にしていれば、からだが滑り出して,階段だって水のように落ちていける。 
ジャワ舞踊の時に,自分を小さくしていって,操られたような意識になり、動いていく感じ。

そんなことともつながっている気がする。

寒風に吹かれた顔 (10/03/2010)


朝から大雪。窓に雪がへばりついている。ブナは、ソリを持って外へ飛び出した。僕は車を見に。とても下の国道までは出られない。仕方が無いチェーンを巻こう。一汗かいたが、手が凍りそう。家へ戻ってしばらくすると,ブナが戻ってきた。 

寒風に吹かれた子どもの顔って、なんていいんだろう。ちょっとカサカサになって,ほっぺが赤くなって,目が輝いて。 

ブナは、週に1、2回、豊中のじいさんとばあさんの家へ行く。すると、後で、ばあさんからメールが届いたりする。例えばこんな感じ。 

・・・ ・・・ 

bunaから「日曜日にオーシャンズ見たいのでよろしく。」と留守電に入っていた。その日曜日は、双子ちゃんとお兄ちゃん、ユッキーの4人でボール遊びに熱中していてbunaに声がかかり、すぐに仲間に入れてもらった。上から時々見ていると結構熱中している。ボール遊びのネットの代わりに子どもたちのジャンバーが地面に並べられている。「おとこのこやな」と新達の時代を思い出した。熱中しているし、映画の結論は本人次第。12時前にほっぺを真っ赤にしてジャンバーのフードを頭にのせて帰ってきた。「あのな、お昼からみんな遊びにくるねん」「こどもべや、bunaのへやでおもちゃ出して遊ぶー」Baba「あら、オーシャンズは」buna「ああ、忘れてた今度行く」と一声。 

・・・ ・・・ 

寒風に吹かれた上に,友達と目一杯遊んで帰ってきた顔はなおさらだろう。自分の世界を持ちはじめているんだなあ。子どもの頃,冬も外で半ズボンで遊んだ。縄跳びに失敗したら,痛かったこと。タコ上げの糸が絡まって,ほどいてもほどいても絡まって,段々暗くなっていったこと。観察池の氷が割れてはまったこと。横っ腹が痛くなってもがんばって走ったマラソンのこと。 

今晩は,みぞれ。時折,遠くで花火がなるように、屋根の雪が落ちていきます。

飛び回るささやき (23/02/2010)

2月21日 
地下鉄御堂筋線動物園前で下りて地上へ,路上に露天が並ぶ。僕はダッシュをしながら「南海の駅あっち?」と聞くと、おっちゃんが笑って「あっちや!」と答えてくれる。南海新今宮駅の3階まで駆け上がると,インドネシア研究家のAさん、染織家のHさんがホームに。バリガムランギータクンチャナ代表のKさんは、改札の外で待っていてくれた。危ない危ない,遅刻寸前,なんとか間に合った。格安チケットを購入してくれていた江美さんにどやされるところだった。 

橋本で乗り換え,単線の線路が山をくねくねと登っていく。極楽橋からはケーブルカー。高野山駅は標高900メートル近い。でも、そんなに寒くなかった。バスで蓮花谷下車。今晩お世話になる宿坊成福院に到着。インドの笛バーンスリー奏者のHさんが昨日から泊まり込んでいて,迎えてくれる。部屋は,別館の豪華な部屋。宿坊とは言うものの,豪華な旅館のよう。去年に引き続き,Gamelan Aidの高野山会議。厳冬の高野山に泊まり込んで,霊性を吸い込んで,時間を気にせず,飲みながらとことん話し合おうという趣旨。あるいは、ということを口実にした宴会。 

早速風呂に入って,からだをほぐそうということに。大阪大学のSさんとGamelan Aidで卒論を書いたAさんもやってきた。まずは、Kさんがやっている足指ほぐし。難しかったが,足の指を全部組み合わせて、あぐらをかくと、悟りが開けそうだった。続いて,僕がやっている背骨の活性化体操。寝転んで背中をそらせて、背骨の一番下を床につけたところから。1センチずつくらいつくところを上にずらしていく。つくところはなるべく1点になるように。首の付け根までゆっくりあげていく。一気に5センチくらい動いてしまったら,行きつ戻りつしながら進めていく。今度は,首からお尻へ。何度か往復させる。なかなかもどかしいが、とても気持ちがいい。 

なんてことをしてると、あっという間に,ご飯の時間。精進料理だが,とても豪勢。名物は、高野豆腐とごま豆腐。気のせいか,去年の方がおいしかったような・・・。それでも、お腹いっぱい。部屋へ戻って、いよいよ宴会議開始。超多忙のNさんが最後にやってきた。今年のGamelan Aidの予定を中心に話はあっちへ行ったり,こっちへ行ったり。ガムランを輪に緩やかに結びついた人たちが共有できることもなんとなく見えてきた。ちびりちびり飲みながら2時近くまで続いた宴会議の間中,諏訪さんは速記者みたいにキーボードを叩き続けた。馬鹿話もいっぱい入っているんだろうな。どこかで公開されるんだろうか。 

2月22日 
朝の勤行はスルー。自宅にいると6時過ぎ、ガバッと起きたブナに「パパ、ご飯作ってや!!」と、叩き起こされるので・・・。冷えきった宿坊で,分厚くて重たい布団で寝るのは本当に心地いい。8時からの朝食をいただく。月曜日なので,忙しい社会人たちが帰っていく。残ったのは,ヒマ人のビンボーゲージツ関係、Hさん、Kさん、Hさんと僕。ゆっくり散歩に出かける。去年は奥の院へ行ったので,今年は金剛峰寺の方へ。ゆるんだ土の道につく足跡を楽しみながら進んでいく。空気が澄んでいく。 

視界が開けると,朱色の根本大塔が目の前に。

シュリン、シュルリン、シュルシュル 

と、軽やかなささやきが聞こえる。なんだろう。上を見上げると、屋根の4角に鐘のようなものがぶら下がっている。 


さらに上空を見上げると、青空に、雲がすごい勢いで流れている。塔のてっぺんのアンテナのような部分、相輪にも小さな鐘がたくさんぶら下がっている。

はるか上空なのに,耳元でささやいているように聞こえる。塔の正面に回って、手を屋根の形に沿わせてみる。相輪の上まで伸ばして,ついでに伸びをする。背骨が伸びて,塔とすこし一体化できる。 

シュリン、シュルリン、ギイ 


時折,我が家の小桜インコのパリノが鳴くように,ギイと、つっかえる。これは、どこかで聞いた音ではないか。ああ、そうか。「サンズイ」の音だ。僕が進めているダンスと音楽が一体化するプロジェクト「サンズイ」の中で聞こえた音だ。風に揺らぎ、動き,音が生まれる。そこにあることを、感じる。すべてを受け入れる。ただそれだけ。 

前夜の宴会議中、Kさんが突然、「誰かおるで、ここに。」と、自分の脇を指差した。小さな話し声が聞こえると。耳を澄ますと,確かに妙な音がいろいろ聞こえた。そして、時折,寸断するような音も。「魔法瓶がなってるんちゃうん?」ってことでその場は片付いた。 

ああ、この音だったのか。地図で確認すると,ちょうど1キロくらい離れているけど、きっとこの音だろう。広い境内には,僕ら4人しかいない。時折,低く響く読経の声、笛の音も聞こえる。標高900メートルの霊場高野山,きっと相輪の鐘,読経の響きのほかにも、いろんなささやきが風に乗って飛び回っていたのだろう。 

光の川 (18/02/2010)

2月15日(月曜日)18時過ぎに船場アートカフェ到着。今日は,船場マンスリーカフェの僕の担当日。大阪ピクニック夜編。去年,春と秋に大阪ピクニック01と02を行った。いずれも3日間シリーズで、1日目作戦会議、2日目ピクニック、3日目映像上映という流れだった。今回は,1日だけのショートバージョン。 

19時過ぎには,参加者が全員集合。大阪市大商学部のHさん、文学部のSさん、神戸大学大学院のMさんとNさん、写真家のTさん、ボーカリストのTさん、ボイストレーナーのKさん、歌が得意なNさん、そして映像担当の本間直樹さんと船場アートカフェの高岡伸一さん。まずは、それぞれ自己紹介。ピクニックに行くんだから,仲良くならないと。それから、I-Picnicの映像上映。「STAMPOK PARK」「BY THE DANUBE」。ハンガリーの子どもとの即興とドナウ河畔での佐久間新+野村誠+藪久美子の即興。映像は、もちろん野村幸弘。 

それから、みんなで動いてみることに。僕はこういうワークショップをする時は,なるべく事前に決めないようにしている。その場とメンバーの雰囲気を見ながら,なるべく即興的にワークショップを進めていく。スタジオの壁に、縦にスリットの入ったカーテンがグルリとかかっている。結構繊細な動きをしそうだったので,それに触れてみることから始めた。そっと触れてみたり,戯れてみたり。みんな入り込んでやっている。まだまだやりたそうだったけど,スタジオの外へ。今日は,ショートバージョンだからある程度さくさくと行こう。 

これは、前にも少しやったことがあるんだけど。船場アートカフェの地下の踊り場の気持ち悪さを体験。そこだけ天井が異様に低くなっているので,かなり圧迫感がある。音や光の感じも変わってくる。背の高さでもかなり違うみたい。そして、ビルの入り口へ。自動ドアがある。中からは反応するが、外からは開かないタイプ。ひとりずつ近づいていって,センサーが感知しないギリギリで止まる。順番に人数を増やしていって,センサーの届く範囲をみんなのからだで描く試み。途中で外へ出て見てみたが,かなりおかしい。見えないものを感じて,からだであらわすのも、ダンスの大切なこと。 

外の世界へ。路地の角を曲がると,御堂筋から風が吹いてくる。店先のシャッターで風宿り。大通りからは,車の音が、信号が変わるたびに通り雨のように聞こえてくる。夜の御堂筋を歩く。Tさんが、ヘッドライトに流されると言って下流に流されていく。光の川。横断歩道をわたって,西側へ。「夜のビル街って、走りたくならない?」って、僕が聞くと,Kさんがうなずくので,ふたりでダッシュ。みんなもついてくる。止まった横には,壁一面がライトアップされた不思議なビル。のっぺりとした壁面に,光によって微妙な陰影が生まれている。かなり美しい。柵が無かったら,入り口前で踊るんだけどなあ・・・。柵のところで,声を壁に放り投げたり,寝転がって壁を見上げてみたり。大きなビルの前では,ビルと一体化したついでに伸びをしたり。 


御堂筋は、西端1車線、小さな中州,4車線,小さな中州,東端1車線、全部6車線、幅40メートル、長さ4キロの大阪のメインストリート。南向きの一方通行。中央大通りの北側は,オフィス街。みんなで中州の北端に立って、タイタニックごっこ。ヘッドライトの光の波を味わう。股のぞきをすると,光が全然違って見える。振り向くと,何百個の赤信号が一斉に青に変わる。一方通行なので,前には信号の光が見えない。中州には、まっすぐ伸びるイチョウ、身をくねらせるイチョウ。上には車が,下には地下鉄が走っている。イチョウはどんな音を聞いているのか? 

巨大な建設中のビル前,地下を塞いだ鉄板の上で,足を踏みしめたり,音を壁に放り投げたり。40メートル向こうのビルにも音が当たって返ってくる。おしくらまんじゅうしたり,走り回ったり,かくれんぼしながら,移動していく。みんな、だいぶからだが軽くなったみたい。まだまだ続けたかったけど,今日はショートバージョン。「横断歩道をわたったら、いつもの世界に戻ったことにしよう。」と言って,横断歩道を渡るんだけど,簡単に元には戻れない。神戸大学のNさんといつまでも足音で遊び続ける。 


船場アートカフェに戻って,質問とアンケートタイム。Mさんが、「気持ちのいいところへ行って、感じるところまではできる。そこから後もう一歩、踊るっていうところに・・・。」そう、そこがね、難しいと感じるかもしれない。でも、感じることさえ出来たら,僕は難しくないと思う。こころが揺らぎだせば,それはもうダンスなのですよ。Mさん、また一緒にピクニックしましょう。今年は,神戸でもピクニックをする予定です。

宙に浮かぶ白と床に絡まる黒っぽいもの (11/02/2010)

ブナが微熱で保育所を休む。4月からの小学校がそれなりにプレッシャーになっていて,朝早く起きたりなにかと疲れがたまっているのだろう。まあ、暖かい雨も降っているし,僕も時間があるので,今日はのんびり家で過ごそう。窓から雨を覗くと,向かいの山に(675メートル)にガスが下りて来ている。雨降りには、枯れ葉や伐採した枝を燃やす家が多い。煙の青が、ガスの乳白色に混じっていく。 

「梅の匂いがする。」とブナ。 
「エー,まだやろ。」と僕。 

んっ!裏庭の端を見ると、なんと梅がほころんでいる。ブナが得意そうな顔をしている。この間は、ロウバイの匂いに、ほぼ同時にふたりで気づいたのだった。昼ご飯は豚汁。歩いて1分の藤細工の工房へパートに出ているイウィンさんが帰って来たので、3人で昼食。 

夕方から、僕は京都のJEUGIAカルチャーでジャワ舞踊教室。いつもよりちょっと早めに出て,2件の展覧会へ出かけた。1件目は,中村伸さんが教えてくれた展覧会。 

(のびるさんのをコピーします) 

・・・ ・・・ 

「而上其心(にしょうごしん) 石田智子展」 
2月5日(金)~2月21日(日)まで、 
京都の「ギャラリー素形(すがた)」で開かれています。 
福島のお寺の住職と結婚した現代美術の作家で、 
檀家の方などからいただく品々の包装紙を捨てるに忍びなく思い、 
それらを素材にした造形の数々を手がけています。 
ファイバーアートというのでしょうか、 
紙を細かく切って縒ったものだけを使って宇宙をつくる。 
前に近江八幡の旧家で展示したものを見たのですが、 
一瞬で重力がなくなったような気がしました。 
ご主人は、わりと売れている作家なのだそうです。 
●ギャラリー素形 中京区室町二条下ル蛸薬師町271-1 
 www.su-ga-ta.jp 月曜定休 
 tel 075-253-0112 

・・・ ・・・ 

室町通に面してガラス張りのきれいなお店兼ギャラリーがあった。奥まったギャラリーに入っていくと,鳥の巣がたくさん集まったように、短い直線が集まって出来た曲線がひとつの固まりになって宙に浮いていた。近寄っていくと,紙で出来た白いこよりだった。5万本あるという。 

室町通を下って,三条通りへ出て川端通を南へ下った。四条をすぎたところで車を停めて,2件目のギャラリーへ向かった。久々に電話したTさんが教えてくれた展覧会。 

高見晴恵ーインスタレーションー 
2月6日ー2月14日 
楽空間 祇をん小西 東山区祇園花見小路四条下ル西側 
www.gionkonishi.com 
tel 075-561-1213 

いわゆる祇園のど真ん中。町家のギャラリー。入っていくと賑やかな京都弁の作家が、僕の前に入った芸大の教授風の男性を案内していた。僕も一緒に入っていった。通りに面した薄暗い日本間に座る。ふすまを挟んで隣と、その奥に作品がある。雨降りの6時は薄暗いので、電気の消された室内はかなり暗い。目が慣れてくると,革の切れ端のような黒っぽい細くて短い曲線が、絡まった干し草のように床に敷き詰められているのが見えてくる。しばらくいると、白いふすま、障子に映る影,どこからか漏れてくる明かりが作り出す微妙な陰影の変化が分かるようになってくる。そこへ、細かな格子の影が大きさを変えながら部屋の中を移動していく。外を通る車のヘッドライト。 

見終えてお茶をいただいた。紺とグレーを張り合わせた厚手の生地を、はさみで1本1本なるべく細くなるように、1年かけて切っていったそうだ。日光やヘッドライト,見る人の感覚と会話する作品。寡黙だけど,雄弁な作品だった。高見さんの京都弁が心地よかった。 

美術を見ると勇気づけられる。揺れるだけだって,立っているだけだって,ダンスになるはずだって。

近くて遠い旅 (26/01/2010)

この間の日曜日は,船場アートカフェで高岡伸一さんと、大阪ピクニックに関する打ち合わせ。去年した船場アートカフェ主催の二つのピクニックに関する印刷物を作成することに。また、2月15日にも船場アートカフェのマンスリーワークショップで、大阪ピクニック夜編を行うのでその件も少し。印刷物がどんな形式になるかは、これからみんなで考える。パンフレットになるかレポートになるかマニュアルになるかイラスト地図になるか。 

まずは,この日記でも途中になっていた大阪ピクニック02 坂編 天王寺~帝塚山 の振り返りをしておこう。これはあくまでも僕の視点。参加したそれぞれが自分の体験をしている。そういったことが反映されるものを作りたいなあ。(写真は、西純一さん) 

10月12日 
13時,JR天王寺駅1階コンコース 551蓬莱前に集合。僕は、車を駐車場に入れるのに手間取って5分遅刻してしまった。 
すでに集まってくれていたのは、建築の高岡伸一さん、エイブルアートの岡部太郎さん、映像担当の本間直樹さん、街歩きのOさん、美術+パフォーマーの池上純子さん、美術の西純一さんとNAOさん、音の専門家のかつふじたまこさん、寝てても方角の分かるHさん、そのお友達のYさん、写真家のTさん、染色会社に勤めるFさん、そしてイウィンさんとブナ。それから、遅刻して途中で合流した小島剛(音の専門家)を入れると総勢15名。 

まずは、JR、近鉄百貨店、アポロビルを結ぶ歩道橋へ。歩道橋の上の南東側で、50代から70代のおじさんたち6、7人が見物にふけっているのを眺める。おじさんたちが眺めているのは、巨大な工事現場。異様に背の高いクレーンが何台も動いていて、地下がむき出しになっている。チンチン電車(阪堺電軌)に沿って立ち並んでいた味のあるアーケードが取り壊されていた。高村薫の「神の火」という小説の舞台にもなっており、留学中ジャワで何度も読み返していた僕にとっては、猥雑だけれどもほんのりと暖かいイメージのある場所だった。 

アポロビルの前を西へ向かい、大阪市大病院を左へ曲がる。先ほどの味のあるアーケードの裏手に当たる。巨大なマンション群が建っている。Oさんいわく「とても紛らわしいイタリア語風の名前」がすべてのマンションにつけられている。この辺りは、ゆっくりと西へ傾斜している。上町台地の西端だ。今回のピクニックは、この台地の西端を天王寺から帝塚山へかけて南下するのが主なルートだ。阿倍野区と西成区の境界にもなっている。崖の上が東、下が西。天王寺から帝塚山へと南下していく。土地の変容とともに、風景、建物、人、植物、動物、音、におい、あらゆるものが変化していく。 

阿倍野マルシェを越えたところで、時計台が現れる。塀があり、崖になっている。階段の下は、飛田新地だ。明治時代にできた赤線地帯だ。階段をおり、飛田新地を南下する。時代が逆行する感じ。新地の南端に「鯛よし百番」がある。元遊郭が今は料理屋さんになっている。15年以上前に、大宴会をしたことがある。新地が途切れたところに、短いトンネルがある。西さんの提案で、上の道に連なる階段に並んで恒例の記念撮影。この辺りは、南北に狭い筋が走り、東側の崖の所々に階段がある。崖際に立つアパートには、崖の下と上の両方に入り口があったりする。階段を上がると、市営南霊園。風が霊園を横切っているのを,みんなでバンザイして味わった。 

階段を再び下りて行くと,玄関が共同の古いアパートが斜面に建っている。高岡さんの説明を聞きながら,タイルや装飾を観察。太ったツヤツヤの猫がたくさんいる。アパートの横に小さな公園があったので一休み。木陰が気持ちいい。鳩が間隔を空けてたたずんでいる。小島さんの提案で,全員1分間音に集中する。近い音,遠い音,大きな音,小さな音。中空に響く高速道路のドローン,鳩の声,切り裂くような鳥の声,自転車のブレーキ,薄暗い窓の向こうのAMラジオに、耳を澄ます。感覚が開いてくるのが分かる。僕は,西さんに聞いてみた。「このアパートと西さんはどっちが年いってますか?」しばらく考えた西さんは,「アパートかな。小さな頃にこんな感じのアパートを見たことがあるし・・・。」 

アパートの側面はつぎはぎだらけだった。木の窓枠,サッシ,クーラーの室外機,洗濯干し用の支え,何種類ものガラス・・・。自分と同じくらいの年齢のものを探してみようと提案した。答え合わせは、高岡さんがしてくる。子供の頃の記憶の引き出しを呼び覚まして,アパートの質感をじっくりと味わった。木の窓の横滑りさせる時のひっかかり。薄く粘りのないガラスの小刻みに震える音。クーラー室外機のホースが壁を突き抜ける周りに塞ぐ粘土のようなもののにおい。牛乳瓶に表面に残された傷の数々。 

再び崖の上に上がって,大谷高校の裏を南下する。ガードレールの音楽,猫じゃらしのダンス。聖天山公園に到着。こんもりとした古墳の上にアメリカ軍も切り倒すことできなかったクスノキがある。Oさんは、本当に故事来歴から地理,地質学まで街歩きに関することは何でも知っているのでうれしい。クスノキの根っこの周りで,自分のベッド探し遊びをやった。ブナが一番上手だった。根っこのベッド。「日本人の観光客なん?」子供たちがしゃべりかけてくる。コンクリートのベンチの裏に敷かれた座布団に猫が何匹も寝ている。 

正圓寺の手前のコンクリートの塀に、雨と風がアラビア文字を作ってる。アッサラームアライクム。境内の桜の老木をそっと揺すってみる。門前にある柄杓で水をすくって,流してみる。水は微妙な線を描き階段の方へ伸びていき、川になる。みんなで川になってみる。足首を柔らかくして,体重の移動を感じて下へ下へ引っ張られるのを感じる。ポケットから携帯とカメラと財布をそっと出して,僕は階段を転がった。 

松虫通りを松虫塚へ向かってずんずんと歩いた。傾きかけた日差しが作る影も一緒にずんずん歩いた。影と双子になった。影に近づいてみたり、離れてみたり。その内,影と影が接近すると影同士がスイッと近づくのを発見した。電柱の影にすっと忍び込んだり,ぬわっと出てきたり。からだの質感が変わるのが、おもしろい。やがて、松虫塚到着。Oさんによると、塚というのは、街歩きで外せないポイントだという。 

阪堺電軌の踏切を越え、松虫交差点の手前を南へ曲がり,熊野街道へ入る。雰囲気のある通り。入ってすぐ右手の家に何人かの人が反応している。僕は,すこし時間を気にしながら歩いていたので,見落としたポイント。みんなで歩いているといろんな発見があって楽しい。少し行くと安倍晴明神社。小島さんおすすめのものすごく狭い路地を西へ入る。ひとりずつ肝試しのように入っていく。踏切を越えて,住宅街を進む。不意に坂道があらわれた。池上さんが家の近くの田んぼの土で作った団子がたくさん入った風呂敷を広げた。祈りとともに,団子が転がりはじめた。コロコロコロコロコロコロ。 

徂親坂を下り,さくら坂を上がる。日が傾いてきた。ヘルメット,多肉植物のインスタレーション。ゴールは無いんだけど,ゴールに近づいている感じ。一緒に過ごした時間が層になって生まれる何か。短くて近いけど遠い旅の終わり。阿倍野神社東門を抜けて,阪堺電軌天神ノ森駅到着。チンチン電車に揺られて,南霞町駅で解散になった。

湯気ダンス、影ダンス (24/01/2010)

1月21日 
10時,近鉄喜志駅。ISIのヘルサパンディさんたちと待ち合わせ。だが、来ない。電車を乗り過ごしたそう。リハがあるので,先に大阪芸大へ。ピアノの加納さん、ガムランの長田さん,バレエの松島さんと最終リハ。段々いい感じになってきた。ヘルサパンディさんたちもなんとか自力で到着。 

13時20分、3号ホールでコンサート開始。出番は,14時30分。ピアノとボナンがテーマの旋律で呼び掛け合う部分から始まる。ピアノがひとりで走り始めると、バレエダンサーが登場。さらにピアノが挑発的に鳴り響くと,僕が扮する鬼がゆっくりゆっくりはらりはらりとあらわれる。ビシビシと雷鳴,太鼓とピアノが勢いよく走り始め、追いかけ合う。バレエダンサーと鬼も走り回り、追いかけ合う。しずかなゆっくりとした時間が流れる始まると、ピアノもガムランも,バレエも鬼も,すべてが混じり合いそうになる。と、鐘が打ち鳴らされる,混じり合いは巻き戻され,それぞれの方向へ伸び始める。音になって,気持ちよく,踊れた。ISIの先生たちも楽しんでくれたようだ。七ツ矢先生、退官おめでとうございます。すぐに着替えて,アートセントーへ。 

16時,天神橋筋7丁目近くの元銭湯のアートセントーを発見。みたところ銭湯そのもの。一緒にパフォーマンスをする小島剛さんがすでにラップトップとスピーカーをセッティングしている。軽く打ち合わせ。僕は,銭湯のあちこちを探検。あこがれの番台にも座ってみる。古い木製で、馬蹄形の手すりの内側には引き出しがあって,いろいろ入っている。そろばんとか,押しピンとか、もちろんシャンプーや石けんも。番台前の男湯と女湯の境界は、なんだか見えないバリアがあるようだ。近づいていくと,からだにビリビリと電波が走る。銭湯の磁場。もちろん、今は女湯も入りたい放題。入ってしまえば,おんなじ構造なので,ドキドキ感は無い。小さなタイル,転がる洗面器,脱衣場の床の竹製ござ、天井のファン,映画館の張り紙、非常ベル、遊べるものがたくさん。 

17時すぎ、パフォーマンス開始、観客は30名ほど。観客というか,立会人というか、参加者。みんなで銭湯を探索するゆるい場面から始める。途中で,参加者の集中が途切れ,バラバラな感じになってきたので,ちょっとがんばってみんなを引きつける。参加者にも絡んでいくと,思いのほか,ノリノリである。服を脱ぎだす人や,僕とくんずほぐれつで脱衣場でダンスする人があらわれる。ツツミさんといったか、この方はすごかった。終了後,僕の中には踊りたい衝動が隠れているのかもしれないと告白してくれた。即興パフォーマンスは45分くらい続いた。その後,フォーラム。18時30分に抜け出す。この日は、もう一本、奈良でワークショップ。 

19時30分、たんぽぽの家到着。月2回の定期ワークショップ。まずは,台湾のウーロン茶とおいしいラスクでなごみながらおしゃべり。影と水を使って,からだのワークショップ。影と影とが近くづくと,影どうしが引っ付くのと,水面に指を近づけていくと最後に水が吸い付いてくるのを,楽しみながらからだを動かしてみる。後半は,本間直樹さんのガムランワークショップ。僕は,床暖房の上でうつらうつら。22時30分終了。またまた、DVD入りのかばんの忘れ物をしたので,アートセントーへ寄って,中川真さんに会って,阪急淡路駅まで送ってから帰宅。ふ~、長い一日。 

1月22日 
17時30分、阪大のオレンジショップに到着。西村ユミさんが掃除機をかけてくれている。DVDのセッティング,ご飯のセッティングなどなど。18時過ぎから、I-Picnicの映像「Bukit Pnjong(ポンジョンの丘)」を流す。参加者が集まってくる。18時30分,ワークショップ開始、タイトルは「湯気ダンス」。まずは、自己紹介。阪大の工学部の学生がふたり,脳神経の専門家,理学療法士,ダンス大好きの大学職員,人類学者,看護学の専門家、臨床哲学者、看護学と現象学の専門家などなど。ジャワ舞踊の話から始める。ジャワ舞踊のコンセプトは、Banyu Mili(水が流れる)。僕のワークショップは、進行も即興。まずはごろんと寝転がって、水のようにリラックスしてみる。理学療法士の玉地さんがいたので,寝転がっている人を指1本で、寝返りするように1回転させるの見せてもらう。僕も、自分のワークショップでもやることがあるが、うまくリラックスした人だと,人差し指やかかとやこめかみなどをつんつんとつついていくと,からだ全体が動き始め,1回転するのだ。 

そうこうしていると、炊飯器から湯気が出始めた。湯気を愛でる。今日の主役は湯気なのだ。湯気と煙の違い,僕がなぜ湯気に引かれるか、などを話していると,ご飯が炊けた。ふたを開ける儀式,ほあ~と湯気が立ち上る。そして、混ぜる、ますます湯気が出る。しばし、湯気を触ったり,湯気と踊ったり。お皿にとって,動いたり,ご飯を指につけてみたり。勝手に動くんじゃなくて,湯気に踊ってもらうのがみそ。みんな一心不乱に湯気と遊んでいる。西村さんさんが持ってきてくれたお惣菜や海苔でご飯を食べる。うまい!湯気を見るために,照明をあてていたんだけど,きれいな影が出来ていたので,そこから影遊びに。みんな完全に踊るモードに入っている。湯気ダンス、そして影ダンス。語って、踊って,食べて、を3回戦まで行った。 

最後に,I-PicnicのDVDを見た。「STAMPOK PARK」、「BY THE DANUBE」、「Impro-Garden」。そこにいる人,もの,環境,時間を感じながらの即興。上映後も,参加してくれたメンバーの話はなかなか尽きなかった。4時間近いワークショップになった。

Q2の忘れ物を取りにY3へ (20/01/2010)

1月20日 
朝,霜が下りた田んぼから水蒸気が上がっていた。すごく暖かいと思ったが,0度。でも、日差しが強かったので,毛布と布団を干した。昼からは,日曜日のアクト・コウベの集まりのときに忘れてきたDVDの入ったをかばん取りに神戸へ。うー、遠いが仕方が無い。あさってのオレンジショップのワークショップで流すつもりのDVDが入っている。I-PicnicのDVD。1時間半かけて,かばんを預かってくれている下田さんがいるY3に到着。下田さんは、CAP(芸術と計画会議)のオフィスにいた。かばんも無事あった。下田さんがCAPのブログに、1月17日のことを書いていている。写真も見られるのでどうぞ。 

http://www.cap-kobe.com/club_q2/2010/01/19144216.html 

みんなカンロクが出てきたなあ。鈴木昭男さんにも会えた。 
この日,一緒に踊ったYangjahさんも、ブログに書いていた。 

http://emptybody.exblog.jp/13523285/ 

彼女とは、また一緒に踊りたいなあ。とても気持ちのいい時間だった。僕らの後に歌った下田さんのライブもとてもよかった。花の名前だけが歌詞になった歌とかとか。オフィスで下田さんのCDを買って,サインしてもらった。その後、Y3やQ2で、僕がやりたいことをいろいろやってみようか、という話になった。I-Picnicの映像上映かとか,振り子奏法のワークショップとか、ピクニック神戸編とか、いろいろ。とりあえず、企画書を書いてみようと言うことになった。今年は,神戸でもいろいろやってみようかな。 

明日は、大阪芸大で七ツ矢さんの作品を踊って,天神橋筋6丁目のアートセントーで小島剛さんとパフォーマンスをして、夜は奈良のたんぽぽの家でワークショップ。なぜか、予定が重なって忙しい一日になりそうだ。

15年目の集まり (2010/01/19)

1月16日 
ISI(インドネシア芸術大学)のヘルサパンディ先生とスリ・ヘンダルト先生が我が家へ泊りにきた。お二人とも政府のプログラムで日本へ調査に来られた。この日は,マルガサリの練習にきて,そのまま我が家へ。とても寒いので、電気カーペットの上に布団を敷いて寝てもらった。 

1月17日 
6時頃から,となりでモゾモゾ聞こえる。起きていくと先生たちが震えていた。電気カーペットが6時間タイマーで切れたのだ。説明したんだけど,忘れてしまったようだ。ストーブをつけて,ジャワティで暖をとる。僕は、もう一眠り。もう一度起きて,家の前に出る朝市へ。寒い。この日は夜に集まりがあって,豚汁を作ることになっていたので,材料を購入。大根,人参,特大ごぼう,ネギ,里芋,椎茸,近所のおばあさんが作っている味噌と漬け物。ついでに餅も買った。後,厚揚げも買いたかったので,近所のたまご屋さんへ行くために,車に乗った。温度計はマイナス4度。9時前なのに・・・。たまご屋さんには、たまご以外にも,鶏肉や地元野菜などが売られている。しめじと厚揚げを購入。家へ戻って,ストーブで餅を焼いて食べる。ジャワの先生たちは家の中なのに毛糸の帽子をかぶっている。キャンプみたいで楽しい。朝食後,先生たちを大阪市大のゲストハウスまで送って行く。 

15時、六甲アイランドにある神戸ベイシェラトンへ。3月に、ホテルとインドネシア領事館の共催で,ジャワの結婚式をテーマにしたパーティをするので、その打ち合わせ。3月13日(土)の昼間にランチパーティ。詳細が決まれば,またお知らせします。 

17時,三宮から南へ下ったフェリーターミナルにあるQ2へ。神戸の震災を契機として生まれたグループ、アクト・コウベの集まり。マルセイユのベーシスト、バール・フィリップさんが神戸のニュースを見て,義援金集め、困っているであろう神戸の芸術家にカンパを持って来た。そのことをきっかけにして生まれたアートに関わる人たちのグループ。僕とイウィンさんも2000年から参加している。最近は、ほとんど活動を起こっていないが,15年を記念して久々に集まった。 

僕が届けておいた野菜は,すでに下準備が終わっていた。料理やお酒を持ち寄ってのパーティになった。バールが呼びかけて出来たアクト・コウベ・フランスのメンバーのアラン・パパローンさんがスカイプでつながっていたので、豚汁の匂いを味わってもらった・・・。ひとしきり料理を食べた後,HIROSさんが何かすっぺか、佐久間君、といって石笛を吹き出した。ボウォボウォと炎のような低い音が鳴りはじめた。僕ものっそりと動き始めた。僕の左手でも,誰かが踊りに加わった。ヤンジャさんだった。3人で,結構長く、パフォーマンスをした。 


1995年1月17日のことも思い出した。 
20代半ばだった僕は,5年半通った大学をやめて,バイク便で働きながら留学の資金をためていた。連休明けのその朝,家は結構揺れたが,大阪市北区にあった事務所へバイクで出勤した。次次と被害が伝わるニュースを聞きながらも仕事をしていた。夕方になると,神戸の病院へパンと水を運んでほしいという要請が入った。何台かのバイクを連ねて,夕方、長田にあった鐘紡病院へ向かった。すごい風景だった。それから半年間,大阪ガスとか関西電力とかいろんな関係の荷物を運ぶために,毎日何度も神戸と大阪を往復した。その年の8月、ジャワ留学へ旅立つ直前まで,そんな日が続いた。 


1月18日 
朝から,大阪芸大へ。木曜日にある七ツ矢博資先生の退官記念コンサートのリハーサルがあった。ガムランの曲も書いている作曲の先生。コンサートは、無料で一般公開されているとのことなので,情報を書いておきます。 

日時:1月22日(木) 13時20分~14時50分 
会場:大阪芸術大学 3号館ホール 
お問い合わせ:大阪芸術大学音楽学科 担当:檜垣智也、谷垣麻貴 
       0721-93-3781(内線:3435) 

レクチュア 「20世紀初頭のある断面~和声における色彩と機能」ードビュッシーとシェーンベルク 
コンサート  
1 「に・じ・む」~独奏サイバー尺八のための~ 
   サイバー尺八:志村禅保 コンピュータ・プログラミング/音響技術:加登匡敏 
2 「すれ合う伝統~ピアノ,ガムラン楽器と2人のだんさーのための~ 
   ピアノ:加納くみ子 ガムラン楽器:細田真平 バレエダンサー:松島あい ガムランダンサー:佐久間新 

よろしければぜひ。鬼になって踊ります。

中国の新聞に載った。 (2010/01/15)


1月15日 朝から大阪芸大に行ってきた。作曲家の七つ矢博資先生の退官記念コンサートのリハがあった。「すれ合う伝統」という曲で,僕が踊るのは今回が3回目。ピアノ以外は,毎回編成が微妙に異なる。今回は,ピアノとガムラン(クンダン,ボナン,クンプール)という編成。舞踊は,バレエダンサーの松島あいさんと僕。大阪芸大60周年記念コンサート以来の再演。コンサートは,21日に大阪芸大の3号ホールで13時から。一般公開はされているのかな?もし、来たい方がいれば,コメントいただけますでしょうか。 

先日,福岡の工房まるの代表、吉田さんからメールが来た。12月に、奈良のたんぽぽの家のメンバーと福岡の工房まるのメンバーと上海へ行った時のことが中国の新聞に載ったとのこと。実は、吉田さんの実家は豊能町内にあり,山は隔ているけれど,同じ町内。正月に帰省された際,吉田さんとお姉さんの家族と我が家の3人の総勢8人で近くの温泉に行ったのだ。 

記事はウェブ上に。 

http://xmwb.xinmin.cn/xmwb/html/2009-12/14/content_441180.htm 

昨日,たんぽぽの家の岡部さんから,この時に様子の写真が届いた。みんないい顔をしている。初対面ですこしずつなごんでいく感じがいい。ダンスが生まれる瞬間だ。 

新聞記事には,残念ながら,あまりダンスに関する記述はない。中国語は出来ないけど、想像を膨らませると何となく分かる。面白いのでちょっと書き出してみよう。 

手挽手起舞 心贴心交流 
手と手を取り合って,心と心の交流 (まあ、そんなところかな?) 

中日残疾人艺术交流论坛在沪举行 
中日 (向こうではこうなるけど 日中のことでしょう) 残疾人 (これは、障碍者のらしいです) 艺术 (字が簡単になって芸術) 交流论坛在沪举行 (そこで交流があったと)

まとめると 
日中の障碍者による芸術交流会があった。 

12月9日,“迎世博――‘2009大家的艺术’中日残疾人艺术交流论坛”在上海举行。来自本市各区的残疾人代表近100人出席了论坛。 
迎世博 (これは万博でしょうね) 大家的艺术 (これでART FOR ALLらしいです) 上海举行 (上海であったと) 来自本市各区的残疾人代表近100人出席了论坛 (各地から代表が100人近く参加した) 

まとめると 
12月9日 万博のウェルカムイベント「2009 ART FOR ALL 日中障碍者芸術交流」が上海で開催され、市内各地から100人近い障碍者の代表が出席した。 

12月10日,日本残疾人代表团访问了徐汇区纪勋初等职业技术学校,与学校的残疾学生交流。操场上,中日残疾朋友手挽手翩翩起舞;教室里,两国残疾朋友肩并肩挥笔作画。中午时分,日本友人津津有味地品尝了纪勋初职学生们精心制作的匹萨、酥饼和馄饨。日本代表团成员山野将志说:“来到上海太开心了!明年世博会期间,我一定再来。” 

访问了徐汇区纪勋初等职业技术学校 (なんとか区にある紀勲初等職業技術学校を訪問) 与学校的残疾学生交流 (学校で障碍者の学生と交流) 操场上,中日残疾朋友手挽手翩翩起舞 (運動場で、違うかな? 日中の障碍者が友達になって,手を取り合ってヒラヒラ舞った) 教室里 (教室では) 两国残疾朋友肩并肩挥笔作画 (両国の障碍者の友達が肩を並べて、筆で絵を描いた) 中午时分 (お昼には) 日本友人津津有味地品尝了 (ここはちょっと難しい 日本の友達が地元の味を堪能した) 纪勋初职学生们精心制作的匹萨 (ここの学生が心を込めて作った) 酥饼和馄饨 (僕らが食べたのはピザとワンタンだったが、これはどっち?うどんみたいな字だな) 日本代表团成员山野将志说 (日本代表の山野君が言った) 来到上海太开心了! (上海へ来られて楽しいよ!) 明年世博会期间,我一定再来 (来年の万博の期間中に,もう一度来たい)  

まとめると 
12月10日 日本の障碍者代表団がなんとか区にある紀勲初等職業技術学校を訪問。学校で障碍者と交流、運動場で、日中の障碍者が友達になって,手を取り合ってヒラヒラ舞った。教室では、両国の障碍者の友達が肩を並べて、筆で絵を描いた。お昼には、日本の友達が地元の味を堪能した。紀勲初等職業技術の学生が心を込めて作ったピザとワンタンを食べた。日本代表の山野君が言った。上海へ来られて楽しいよ!来年の万博の期間中に,もう一度来たい。 

まあ、ちょっと間違っているだろうけど,大筋はこんなところだろう。自分で体験したことだからね。

幸弘マジック (2010/01/12)


1月9日 

I-Picnicのメンバーでイタリア美術が専門の野村幸弘さんが主催する岐阜大学芸術フォーラムへ出かける。お弁当を作って,11時前に出発。京都東まで地道で走って,高速に乗る。彦根あたりから 雪景色になってきた。伊吹山のSAで休憩。雪がたくさん積もっていたので,ブナと雪合戦。今年は、我が家の周りには、まだ雪がつもらないので,ブナは大喜び。雪に手を付けての我慢比べは,二人とも意地を張り合って,30秒。手の色が変わってしまう。冷たい冷たい。関ヶ原で高速を下りて,21号線を走って,岐阜市内を目指す。 

少し迷ったが,なんとかアトリエ幻想工房に到着。古いビル丸ごとがアトリエ。1階には,美術作家としての幸弘さんの作品がたくさん。絵やインスタレーション。屋上からは,金華山にある岐阜城がよく見えた。近所の屋根の上には雪が残っていた。14時からフォーラムがゆるゆると始まる。だんだんと人が集まりながら,朝方まで続くのだ。幸弘さんからのお知らせメールによると, 

岐阜大学芸術フォーラムは、2001年4月から始まり、途中、2003年、主催者野村幸弘のイタリア滞在により、1年の中断をはさみましたが、今年で10年目を迎えます。そして今年7月には、第100回記念を控えています。今年もどうか岐阜大学芸術フォーラムをよろしくお願いいたします。 さて、第94回岐阜大学芸術フォーラムは、明日1月9日(土)午後2時より、アトリエ幻想工房(岐阜市八ツ梅町2-17)にて開催します。 

ということなのだ。前々から誘われていたのだけど,土曜日はマルガサリの練習があって、なかなか抜け出せなくて、今回はじめて出席できたのだった。岐阜大学の河川とか神社とかが専門の先生、通学中の子供がどこにいるかが分かるシステムを作っている先生、コピーライター,イベントプロデューサー,市役所職員で町おこしイベント企画の人といったところが最初の方の参加者だった。途中からガバッと参加者が増えてきた。おいしい野菜を持ってきてくれた人がいて、豚汁を作るというので,料理部隊に加わった。僕は,厨房作業が好きなのだ。 

音響の専門家とその友人,ドイツ哲学家,書道家とその子供とその夫のパナソニックの研究員、即興パフォーマー、ジャンベ叩き,幸弘さんの元教え子,コミュニケーション音楽家とその友人も夜になってやってきた。豚汁と野菜スティックサラダ,きな粉もち、甘酒などを次々と作っていった。僕は,車なので飲めなかったが,イウィンさんは甘酒を3杯もお代わりしていた。ブナは子供がいたこともあって,大喜びだった。 

フォーラムは、その回によって,内容が違うそうだが,今回は食べながら,参加者がめいめいに好きな相手と好きな話題を話すという、簡単に言うと宴会そのものだった。これが、10年100回も続いているのだ。恐るべし幸弘マジックである。本人は,料理を振る舞うわけでもなく,シャンペンを片手に,こたつの近くでゴロゴロしているだけなのだ。幸弘さんのこのリラックス能力は、去年のI-Picnicツアーでも話題になっていたのだ。 

この日,唯一決まっていたのは,去年のI-Picnicのハンガリー~オーストリア編のDVDが一部完成したので,それを上映することだった。残念ながら,僕は翌日午前中から,インドネシア語の授業があるので、帰らなければならなかった。22時頃、帰ろうかと立ち上がるとなんとなく踊る雰囲気になり,そこから即興ダンスが始まった。参加メンバーの各自が音を出したり,叫んだり,動いたり,子供たちも大活躍した。いい感じの即興になった。 

家に帰って,DVDを見た。ハンガリーの子供たちとのダンス,ドナウの川辺でのダンス,オーストリアの音楽学校でのワークショップ,野外での集団即興,教会のでコンサートといったラインナップ。クレムスのは未完成だった。 

STAMPOK PARK 

BY THE DANUBE 

The Workshop in Perchtoldsdorf 

Impro-Garden 

The Consert in Spitals Kirche 

どれも見応えがあった。一昨年は,浅草のアサヒアートスクエアで,上映会をした。今年も,I-Picnicの上映会をしたいなあ。そして、幸弘さんとは,共同でダンス作品を作ることも計画中なのだ。

 


さっくん! (2010/01/05)

1月2日 
高校の同窓会があった。高校を卒業してはじめての学年全体の同窓会。1987年に卒業して以来だから23年ぶり。担任だった藤上サンの退官記念パーティ,クラスの友人との小規模な集まり,僕の留学壮行会、同級生の近持クンや岩崎クンが亡くなった時の集まりなんかがあり,時々顔をあわす友人もいた。3年くらい前から,もうちょっとみんなで集まりたいね,という話が広がりはじめた。正月やゴールデンウィークに、帰省した友人を呼び出して,5人から15人くらいで集まって,何度か飲んだ。 

高校時代はハニカミ屋だった別所クンが20年経っておしゃべりに変身していた。仲が良かった僕は,高校1年からその素質は見抜いていたけど・・・。彼が,大同窓会の幹事役を買って出た。ラグビー部の別所クンとサッカー部の武田クンが中心となって、各クラスのとりまとめ役を選んで,何度かミーティングを開き,呼びかけの招待状を送った。結果,なんと卒業生の半分近い240名から出席したいと返信があった。担任の先生も12人中9人が参加してくれることになった。 

16時30分、阪急豊中駅近くにあるホテルアイボリーに到着。目が合った瞬間,23年前の記憶が一気によみがえってくる顔もあれば,しばらく経って,23年分の人生の襞を少しずつかき分けながらようやく高校時代と今とが結びつく顔もあった。それでも、みんなそれぞれの人生を刻んだいい顔になっていた。ロビーには,顔が分かっても,どんなトーンでしゃべったらいいのか、あだ名で読んだらいいのか,呼び捨てにしてもいいんだろうか、という微妙なとまどいの空気も流れていた。でも、同じクラブだったラグビー部の連中の顔が見えると,僕は理屈無しに思わずお腹にパンチを入れてしまった。肉体の記憶。スクラムハーフだった田口クンがおでこに手を当てて、「佐久間は,こっから下は全然変わってないなぁ。」とニヤニヤした。彼は、やたらにフサフサだった。横にいたのは,ナンバーエイトのまっちゃんか?!まっちゃんは、僕と一緒のサビイシイ系グループ。 

僕は,踊ることになっていたので,控え室で準備をした。パーティは17時に始まった。シンディ・ローパーのタイム・アフター・タイムから始まって,プリンス,デュラン・デュラン、ワムの曲が続いた。80年代半ばは,洋楽全盛時代だったのだ。選曲は軽音楽部の山本クン。司会はサッカー部の武田クン。同級生の前で踊るのは、いつもとは違う緊張感だ。うーん、緊張とは少し違う,何か覚悟のようなものが必要だ。いろいろなことを見透かされている人たちの前で踊る覚悟。みんなそれぞれの23年間を生きてきて,社会や家庭でそれなりに大切な役割を担っているのだろう。その彼らの前で,自分がどんなダンスを磨いてきたのか,それが試されるようだった。とにかく、ほとんどの同級生は,僕がよもやダンサーになっているとは、知らなかったのだから・・・。 

17時45分,笠原純子さんのピアノが始まった。ヨーロッパで賞を取ったり,世界的に活躍しているようだ。彼女のピアノの音を聞きながら,ゆっくりと味わいながら,舞台袖で,衣装を整えた。いい時間だった。会場は少しざわついていたが,ピアノの音は次第にうねりになって,響きはじめた。続いて,ガムランの前奏が始まると,僕は袖からスッと舞台へと上がった。なんと!200人が舞台を取り囲んでいて、最前列には、ラグビー部の連中が座り込んで並んでいた。高ぶる気持ちを抑え、ジャワ舞踊の世界,自分の世界へと下りていった。自分を消して舞踊自体になることとそれでも残る自分自身とをせめぎあわせながら,その交差するエッジを綱渡りして踊った。みんなが見つめる空気を感じて,楽しんで,それを揺るがし,切り裂きながら踊った。 

僕らの高校は文化祭が盛んだった。どのクラスも競い合って演劇や映画を作ったし,軽音楽部のライブも窒息寸前の視聴覚室で大いに盛り上がった。僕らのクラスは、1年の時は映画,2,3年では演劇をやった。2,3年と,僕は、女子にメイクをしてもらい,衣装を着て舞台に立った。その時と今とは、つながっているのか、いないのか。見ているみんなも、それぞれの記憶をよみがえらせていたかもしれなかった。ダンスの後,何人もが声をかけてくれた。20代や30代ではなく,40代になった今,届くメッセージというのがあるのかもしれない。 

2次会も,引き続き同じ会場だった。170名が残った。この日,僕はひそかな希望を持っていた。僕は,小学校6年の途中で引っ越し,同じ市内の別の校区の中学校へ行った。高校へ入ると,小学校の時の友達も見かけた。しかし、なぜかしゃべりかけることが出来なかった。中学の3年間で出来た自分の伸びシロの差異が,小学生のもっと無邪気で純真だった自分を知っている友達と話すことを邪魔していたのかもしれない。15歳の自意識は,垂直にどこまでも伸びて,自らを不自由にしていた。今日だったら,「あの頃は,なんとくしゃべりにくかったよなぁ。」と話しかけられそうな気がしていたのだ。 

隣のテーブルに、ててサンの顔を発見した。後藤田さん。ててと呼ばれていた。ハニカミ屋だった僕は,女子をあだ名では読んでいなかったような気もするが、今だったら,「ててサン!」と呼びかけられる気がしていた。テーブルへ近づいて行くと, 

「あっ、さっくん!!さっくん、久しぶりやな。」 

と、ててサンから声をかけてきた。そうや、僕はさっくんと呼ばれていた。ててサンは、「さっくん、さっくん!」と連発した。ててサンと僕は、同じ仲良しグループで,交換日記もしていた。「さっくんは、お母さんに見られるのがいやで,トイレで書いてたんやで。」と言った。僕は,そんなことは覚えていないけど,交換日記のことはよく覚えている。小学校以来だから,ほぼ30年ぶり。浅井さん,河合クン、坂和サンともしゃべったり,写真を撮ったり。「さっくんって、おかっぱの長髪で、運動神経の固まりって感じで,でもちょっと悪かったよな。」ふーん、そんなイメージが残っているんだ・・・。 

翌々日来たててサンからのメールによると、どうやら彼女は,高校時代に僕としゃべっていなかったのを忘れていたらしい。小学校の時のイメージがものすごく強く残っていたから、全然違和感無く「さっくん、さっくん。」と呼びかけられたそうだ。 

3次会は、駅前の居酒屋。最後は,20人くらいになった。高校1年の時に,同じ文化委員で一緒に映画を作った上畑さんは、実にいろんなことを覚えている。やっぱり翌々日に来た彼女からのメールによると, 

文化祭の打ち上げの中華料理店で、回転テーブルをいきおいよくまわしてしまい、醤油がこぼれ、「おまえ、はしゃぎすぎ!」と佐久間くんに叱られたこととか。(笑) 

っていうことがあったらしい。僕は結構昔のことを覚えている方だが,この記憶は無い。同じ時を過ごしたみんなが、それぞれに記憶に留めていることがある。久々に出会って、みんなの記憶の中のいる自分に出会うのは楽しいことだ。三周目の20年に入った今,ちょっと立ち止まって自分の歩いてきた道を眺めて,これからの道を進み始めるのも悪くないと思っている。30年前には,トイレで日記を書いていたのに,今ではこんな公開日記を書いている。年を取るって,すごいなぁ。