夏のかえるケチャまつりレポート              

里村 真理

 

2020627日(土)-28日(日)

session1: 19:30-20:30

session2: 23:00-0:00

session3: 3:30-4:30 

 

「夏のかえるケチャまつり」に参加させていただいた。案内役の佐久間さんが世界中に伝えたいかえるのいる谷の会場にて。

自然と人が作った谷地の棚田で、あの晩に生まれたことは全身で喜びを感じるような圧倒的な体験だった。ネット回線に繋がらない状態であの場にいたため(時々Zoom画面をのぞき込んだりはした)、まつりの体験としては偏っているが、あの場にいた数少ない者として、あの時の体験と感じたことを書き留めておきたいと思う。

 

■カエルのいるところ

中央に一本の道が走る、谷地。両側にはちょうど向かい合わせに土地が盛り上がっていて、棚田が広がっている。会場は、豊能町の谷あいに広がる棚田と、その上にちょこんとおかれた蔵のような建物。古谷(こたに)さんという方が自宅の敷地内に設置し、いろんな人と楽しく使っていると言う。今回お世話になった古谷さんご一家はみなさん明るく迎え入れてくださり、この暮らしを大切にしているのが伝わってきたことは、とても印象深かった。

この地域の棚田は、数年後に区画整理をして、田んぼを拡張し、重機が入るよう形を変える予定なのだと聞いた。棚田の風景がなくなってしまうのは惜しいほどに美しい。しかし、狭い道は車で進入するのも一苦労。暮らすのはなかなかに大変そうでもある。

それにしても、佐久間さんが13年間も向かいの西ノ谷に暮らしていたと聞いて、やはり驚く。どれだけフットワークが軽いんだろう。つねに越境、複数の世界を行き来しているんだなあ。

緑の稲穂がすくすく伸びる田んぼでは、毎晩カエルが大合唱していた。このカエルと佐久間さんをはじめアーティストが共演し、カエルの鳴き声を様々な土地の人に届け、また、この地のカエルに他の場所に生息するカエルの声を聞かせたいというのが、今回の「夏のかえるケチャ祭り」の趣旨だ。

 

*打ち合わせで、「Zoomのなかに、他の人々と同様にカエルの枠がある」というイメージが話されていたのは面白かったので、ちょっとメモ。

 

■谷で見たこと、聞いたこと

人々が愛情を込めて誇りを持って、先代から受け継いで耕している田んぼは本当に美しく、サラウンドで聞こえてくるカエルの声に佐久間さんが魅せられ、人に伝えたいと言う気持ちがよくわかる。ずっと鳴いているわけでなく、時折さざ波のように鳴きはじめ、ふと気づくと静かになっている。いつでも聞けるわけではない。素人には、なかなかその間合いが読めないが、すこしずつ呼応しているような感覚が感じられてくる。カエルの世界の扉が開いていく・・。

その空間には、複数の鳴き声が重なって響いている。知っているのはアマガエル、ウシガエルくらいだけど、それ以外にも、確かにある。ウシガエルの声がなんとも気に入ってしまった。バスケンハモの一番低い音が、ウシガエルの声と同じだという話。

カエルへの情熱、土への尊敬、谷という土地が人を包み込むあり方、カエルの声と人の声、カエルや谷と向き合うこと。その空間に満ちているものは、シンプルに美しい。その美しさのなかには、気まぐれさも含まれていて、より魅力を増す。多声的で、その音によって谷に満ちている空気が波のように動き、造形される。session3の朝がやってくるあわいの時間に、佐久間さんが畑で、その谷に満ちたカエルの鳴き声を含む振動する空気と、大地(土)と、空間の全方位と寄り添い、委ね委ねられながら踊っている姿が、その谷に満ちた粒子のようななにかを浮かび上がらせているようだった。谷と踊っている、そのように感じられた。

 

早朝に、少しずつ太陽が周囲を照らしはじめ、カエルから鳥に移っていく時間は、太古から続く時間を感じさせる。と同時に、カエルがこのように集まっている場所が生まれているのは、人間が自然に手を入れたことによっている。地球という環境と人間という生物が、さまざまな偶然と必然と有機的なつながりで作り出した空間であり、音楽だったのだ。

 

谷あいに置かれたスピーカーが、ものすごく空間を立体にしていた。

もともと谷は立体なのだけれども、音が空間内を周り、踊っているかのように満ちている。音が満ちている感じは、空気の振動で伝わってくるのだろうか。

そこに響く野村誠さんの音。鍵盤ハーモニカ(アルトとバス)、かえるを模した楽器、小さな銅鑼、木製の箱型の楽器、チャフチャス(クルミ殻様のものがたくさんくっついた楽器)、大きなゆるい片面の太鼓。どれも、カエルと応答できそうな音がする。カエルとのコミュニケーションを考えたチョイスに唸らされる。こすだり庵で、または畔に降りていって出す音は、旋律ではなく、もっとプリミティブな繰り返されるビートのような音が多かった。その音を出そうと思わされたものはなんだったのだろう。カエルの鳴き声は、たくさんの音が重なって(カエルは一匹が鳴き始めると、呼応するように次々と他のカエルも鳴き始めるのだという)おおきな一つの波のようになる。一つに感じられているものが、ふたたび一つ一つの粒子に返っていく感じが、野村さんの音から感じられたような気がする。

ほんまさんの「産まれる」の物語も圧倒的だった。一人一人の人間が生まれる瞬間の物語。様々なエピソードが、毎日あっちこっちで生まれている。一つ一つは同じではないのだけれども、産まれるという出来事は等価で、それはカエルが孵化するのとも等価になる。谷に放たれた「産まれる」の物語が、カエルと人とを同じくする。なんとも心地よい。カエルは、静かな抑揚で祝福をしているようだった。

 

    Zoomを使った交流

Zoomというツールの面白さがかえるケチャ祭りでも感じられた。カエルの声を届けたいという気持ちや、いろんな人と場を共有したいという気持ちがシンプルに詰まっていた。声を掛け合う、様子を尋ね合う、助け合う・・そういったやり取りがZoomに生まれているのを感じられた。距離も言語も背景もフラットになる感覚。これまで行ってきた人との接触が、より濃厚になっているようにすら感じた。また、離れた会場でネットでつないで参加しているゲストの砂連尾さんが俯瞰した眼差しで存在し、時に佐久間さんに茶々を入れながら、時に参加している人に役割を振りながらいたことは、進行としても重要であったと同時に、中心があちこちのエリアにまたがっている感じが不思議な奥行きを与えていたように思う。

もう一人のゲストで、町に近いエリアでカエルを探して道を歩きながら配信したダンサーの古川友紀さんが、牧の谷と違う時間と空間を届けてくれるのも、とても良かった。暗闇のなかでスマートフォンとシンプルな照明によって映された映像は、情報が限定され、光がハレーションを起こし、とても幻想的だったのだ。ゆったりとした歩くテンポを保っているのも、異世界から届く映像のようで心にじんわりと残った。

 

    砂連尾さんの蛇のダンス

四股から繋がっている創作。四股は、大地を踏み、土と接した身体の部位を意識的にし、足の裏からつながる身体へと意識がつながっていく。大地のさらにその先の土の中へも思念を繋げる。

ダンサーの砂連尾理さんが東京から送る映像に映るのは、ゆらめく影。ゆらゆらと揺れる怪しい生物ーー蛇を象ったもの。象ったものは、はじめ物質性を強く帯びている。ぐったりと砂連尾さんの身体にぶら下がっている。しかし、砂連尾さんの動きが徐々に大きくなっていくにつれ、ぶら下がっていたはずの人形に操られているかのように感じられる。初めは、自らがそれに命を吹き込むかのように、動かぬひも状のものを動かしていたのに・・。主従が逆転する。

そのうち、パフォーマンスは影の世界へ移行する。カーテンの向こうにうごめくものを影が映し出す。一枚の布が介入し、影によって浮かび上がる動きは、不思議な真実味を帯びる。ダイレクトに核心を浮かび上がらせるように。プラトンのイデア論を思い出したりもする。掴めない世界が向こう側にある。それは掴めないが故に真実であるような感覚。

そこになかったものが、突然強いリアリティを伴って浮かび上がる。フィクションが作り上げる実感の強さを感じる。

そのことと、Zoomという仮想空間で起きる接触をパラレルに考えるとどうだろう。私たちが仮想空間に感じているリアリティとは、フィクションを感じ取る想像力に基づいているのだろうか。Zoomを介して拡張される知覚とは、どういうことなのだろうか。

 

私自身、朗読で参加させてもらったのも、本当に喜びに満ちた経験だった。あの谷に自分の声が響くということを、谷に行って聞くことは(もちろん)できなかったけれど、想像するだけで、ぞくぞくした。スピーカーから谷に響く音は、大気に満ちて、大地や山肌を撫で、カエルに届く。テキストも、カエルとヘビについて。その人間の想念について。谷にどう響いているだろうということを想像しながら声を出した。

YouTubeの映像で砂連尾さんのパフォーマンスの背景に聞こえる声を聞いた時には、命を拭きまれたへびや、カーテンの向こうの影が浮かび上がらせるものがあるように、声もまた、そこに幻を見せるメディウムになりうるのだということを感じさせられた。

 

 

    Zoom、身体の延長

佐久間さんにとってZoomは、身体を拡張するものなのではないか、ということ。佐久間さんが触れたい世界(リアリティを感じる世界?)は、身体で触れ、感じられることにあるのではないかと思った。そこから始まる表現にリアリティを感じるのではないか、と。

スマホやPCを介して、Zoomを使うことで、身体で触れられる領域が自然に拡張されたことが、今回の表現にもつながっていったのではないかと感じた。自身の身体が感じたこと、発見したことを、人に伝える、という欲求。そして、身体を介してより外にも広がる世界に触れていく。

 

佐久間さんが問題行動マガジンwebに連載中の「こまったレシピ」も思い出す。料理をすることも、料理の道具は使うものの、自然からもたらされたものに直接触れる。食材を時にそのまま、時に姿を変化させて、人間が交流(味わう)できる状態を探していくというフィジカルな感覚に基づいているのではないだろうか。

発見していくような感覚。具体的に実現したいイメージに向けて進んでいくというより、つねに進行形で、応答的(何かとのコミュニケーションの中にある)であるのかもしれない。

 

Zoomは、声をあげ、姿を伝えて参加することもできるし、表示画面サイズを変えることで、わずかでも視覚的な主体性を持てる。zoomは、演出上のある種の余白や、ラフさが効果になりうる作り方もある。その場合、作り込まれた映像作品よりも、ずっと作品との距離を近づけることができると感じた。一方で、Youtubeは、オンラインではあるけれども、当然ながらzoomと持ち味は違っている。youtubeを通して配信される映像を、人が主体性を持って楽しむためには、必要な演出がある。というのは、今後のためにメモ程度で残しておく。

 

    そのほか

Zoomでのパフォーマンスや演奏を含むイベントの配信現場に立ち会うのは初めての体験で、配信にかかり必要な準備や対処することの多さを実感した。Zoom内部で自動的に調整されてしまう音の対応、お客さんの入場受付、画面のスイッチング、ノイズをカットするためのミュート設定、ネット環境、暗所での照明、参加している人の全端末への気配り等々。

自然の中、しかも深夜、当日は雨も降る中、少ない人数であの現場を切り盛りした制作の那木さんをはじめ、音響の松尾さん、鶴林さん、強力な助っ人の小川さん、インドネシアの差し入れで場を和ませてくれたイウィンさんに敬意を表したい。コロナウィルスの関係で表現の現場が中止・延期を余儀なくされている日々の終わり(と願いたい)が、「夏のかえるケチャまつり」であったことは忘れないと思う。大きなものを共有し、それぞれの役割を担って、お互いを信頼しあいながら、未知のものへ向かって進んでいくあの現場の感覚がとても強く感じられた。