ウサギからネコへ (2009/12/25)

12月25日 

メリークリスマス。太陽も力を回復しつつあります。 

昨日は,梅田へクリスマスプレゼントを探しに行った。中津辺りに車を停めて,歩いて梅田方面へ。ロフトに入った。いつ以来だろう?あっそうそう,来年のスケジュール帳を買わねば・・・。懐かしい絵が、目に飛び込んできた「子猫のピッチ」。子供の頃に一番お気に入りだった絵本。迷わず買ってしまった。去年のは,ブルーナのウサギだったので,ウサギから猫へバトンタッチ。イケナイイケナイ、今日の目的は,クリスマスプレゼント。道路をわたって、阪急三番街辺りをウロウロ。 

去年のクリスマスプレゼントは,小桜インコだった。家へ置いておくとバレるので,鳥かご抱えての1日で大変だった。京都の舞踊教室では,鳥かごを置いてのレッスンになった。今年は何にしようかと迷ったが、最近、ブナは宇宙と恐竜に興味が出てきたので,その方面で探すことにしていた。結局,加古里子の「宇宙」の絵本,恐竜の図鑑,世界の国旗のカルタ、ラキュウという小さなブロックという組み合わせにした。 

一度,牧の自宅へ帰って,イウィンさんとインコのパリノとブナを保育所へ迎えにいき,豊中の実家へ。上がっていくと,部屋はロウソクの明かりだけになっていた。ばあさんが気合いを入れて,鳥の丸焼きを焼いていた。ブナはサンタの衣装に着替えて,じいさんとばあさんからプレゼントをもらった。目覚まし時計と谷川俊太郎の「ともだち」という絵本。ケーキを食べて,ごちそうを食べて,牧の家に帰った。オリオン座が瞬いている。ブナは車で寝てしまったので,だっこして、ベッドに運んだ。プレゼントをセットして,僕も寝た。後何回,サンタになれるのだろう。

抜けた〜。 (2009/12/21)

少し前、たんぽぽの家のカンプータイラーこと岡部太郎さんからメールがあった。 

・・・ ・・・ 

すみません、全然別件なのですが、先日いただいた美味しいお茶のパッケージの意味を教えてください。 
釘抜きの図柄だと思うのですが、お茶との関係性が知りたいのです。「お茶を飲めば元気に働ける」という感じでしょうか。それとも屋号のようなものなのでしょうか。書いてある文章に意味があるのでしょうか。 
個人的な興味です。お時間のあるときに教えて頂ければ幸いです。 
美味しく頂いています。ありがとうございます。 

・・・ ・・・ 

岡部さんにジャワのお茶をあげたのだった。ジャワに昔からあるお茶、タバコ,調味料,ジャムー(漢方系の強壮剤など)などは、パッケージにキッチュな絵が描かれていてカワイイ。夏に来日したオン・ハリ・ワフユさんもコレクションしているといっていた。特に、ジャワティーのパッケージにはさまざまなロゴあって,みんな好みの味とロゴがある。このペンチロゴの名柄は、おいしいお茶の定番である。ネットで検索するとこんなのが出てきた。 

http://terserahbapak.blogspot.com/2007/09/blog-post_22.html 

Terserah Bapak 
おじさんにおまかせ という名前のウェブサイトで,どうやらグループの名前でもあるらしい。 

KAMI BERUSAHA MEMBANTU MELESTARIKAN KEBUDAYAAN INDONESIA MELALUI KATA-KATA DAN CANDA TAWA BERSAMA KELOMPOK TERSERAH BAPAK. 
私たちは,「おじさんにおまかせ」グループとともに,言葉や馬鹿話を通して,インドネシアの文化を保存することを目指している, 
そうだ。 

右側のリンク先や右下の商品名をクリックすると他のお茶目のパッケージもいろいろ出てくる。 
で、このペンチの意図とは、 

rasa Tehnya yang nikmat digambarkan melalui pentjatoetan paku oleh tang pada gambar, jadi saat kita merasakan Teh ini rasanya seperti diTjatoet. 

このおいしいお茶の味は、絵にあるようにペンチによって抜かれる釘で表現できるのだ。つまり、わたしたちがこのお茶を飲む時、味は「抜けた~」という感じなのだ。

けむる魔都 (2009/12/16)


12月8日 
先週に引き続き、またしても関空10時50分集合。たんぽぽの家から、理事長の播磨靖夫さん、スタッフで今回はプレゼンもする岡部太郎さん,僕のダンスパートナーの伊藤愛子さん、今乗ってる画家の山野将志さん、プレゼン兼山野さんケアの藤井克英さん、美術ワークショップ担当の中井幸子さん、愛ちゃんケアの北野しのぶさんが4階ロビーに集まっている。愛ちゃんのお母さんと送迎の中川さんも。 

12時50分発、上海航空機で出発。機内食のスパゲッティを食べると、あっという間に14時過ぎ(時差1時間)上海着。イミグレーションが少し込んだが無事入国。はじめての中国上陸!イミグレーションの係官は,ちょっと見、無愛想だが,よく見ると憮然とした顔の下に親しみやすい顔が見え隠れしている。僕の前にいた中央アジアらしき人の旅行者のパスポートのビザを寄ってたかってルーペで覗き込んでいるのもちょっと芝居がかった感じで、みんな楽しそう。両替場の人民服みたいなちょっとダボダボの制服を着たガードマンも,聞きもしないのに,僕が持っているスコットランド・ポンドを見て,「それは無理だよ。」と話しかけてくる。人と人の距離が近い感じ。 

上海障碍者連合会国際部のメンバーで通訳を兼ねている聞セイ(女偏に青:ブンセイ)さんと王安さんが迎えにきてくれていた。2時間ほど遅れて,福岡から工房まるの3人がやってくるので,空港内のバーガーキングで待つことに。聞さんは、中国の大学で日本語を学んだ後,岡山へ半年留学したという。半年とは思えないほど、日本語がとても流暢である。「私の名前はブンです。新聞の聞です。」と自己紹介するので、「僕は,新聞の新です。」と、僕も自己紹介した。目がクリクリと動き回る聡明な女性。 

工房まるの代表の吉田修一さん、画家の柳田烈伸さん、ケアの池永健介さんが到着。吉田さんは黒いレザーのジャケット、柳田さんと池永さんは山高帽に眼鏡姿で,3人ともとてもファッショナブル。マイクロバスに乗って,市内へ。しかし、ラッシュ時で高速道路がひどい渋滞。運転手は雑疑団並みのテクニックで4車線の端から端までを使って,どんどん河をさかのぼって行く。僕はジャワで運転を覚えたので,こういうのには慣れているけど、それにしてもすごい運転。頭上を、リニアモーターカーが凄まじい勢いで通り過ぎていった。高速の両側のビル群はスモッグにけむっている。1時間半ほどでノーブルセンターというホテルに到着。吉田さんたちは,飛行機に乗っていた時間より長くなったよう。 

播磨さんは,30年以上前から上海障碍者連合会と付き合いがあり,その中のひとりのラさんがこのホテルの支配人だったので,なにかといたれりつくせりだった。特別室に案内され,ガラスのぐるぐる回るテーブルを囲んでの食事になった。その日は,そのまま解散,就寝。僕はちょっと寝付けなかったので,小雨の降る中、ホテルの周りを散歩した。海外の初日は、いつも高ぶった気持ちになる。ヤッケのフードをかぶって、夜の上海の気配を感じにいった。ガードマンの目つき、商店のおじさんの態度,アスファルトの具合,車の飛ばし具合,食堂の窓の汚れ具合,マッサージ屋の女性の視線の粘り具合、街灯の薄暗さ,道行く人の視線の強さなどを感じながら、雨がオレンジの電灯に照らされる中を歩いた。6、7車線ある大きな道路に面して,古いアパート,タバコ屋,怪しいマッサージ店,汁そば屋などが並ぶ。ジャカルタと似た感じかな。寒いのを除けば。共産時代に建った集合住宅がなぜか懐かしく感じられた。ホテルのガードマンに柵をあけてもらって,部屋に戻って,おとなしく寝た。そういえば,ジョン・レノンの命日だったか。真珠湾開戦の日だったか。 

12月9日 
午後から,ART FOR ALLと題されたフォーラム。日中の障がいある人のアートに関する報告会。日本からは,播磨さん、岡部さん,藤井さん,吉田さんが発表を行った。中国では,障がい者のアートと言えば,聾唖者の絵や視角障害者の音楽などに限定されているとのことだった。それに比べると,日本では,知的障がいのある人のアートの取り組みが進んでいる。障がいのある人の独特のアートを商品化していくというのが,中国側の参加者の興味を引いているようだった。会場にたくさんいた聾唖者の参加者が、パワーポイントで映し出されるTシャツやマグカップになった障がいのある人の作品を盛んに撮影していた。中国側の発表で朱希さんが発表した農民の絵画はすばらしかった。学校で絵画の教育を受けていない農民が,自分たちの農村の生活や世界観を色鮮やかに描いている。会の終了後,朱希さんが農民の絵のカレンダーをくれた。来年行われる上海万博の記念グッズなので,立派なものである。しかし、農民が描いた/描かされた万博会場や都会の絵は,全く面白くなかった。 

夜は、歓迎会だった。レストランに招かれた。日本語,中国語,英語が乱れ飛んでの賑やかなパーティになった。佐久間新というのは,中国読みでは,ZUO JIU JIAN XINとなると教えてもらった。シンは、XINで同じ。体調を崩してパーティを欠席した岡部太郎さんの名前は,カンプー・タイラーと発音するようで、昼間,彼はしきりに自慢していたのだった。料理は,おいしかった。特に豚肉と皮と脂を餅米で炊いたのがおいしかった。河魚の蒸し物もおいしかったが,これはこの前の週にジョグジャで食べたカカップ(鯛に似た海の魚)の蒸し物の方が一段上だった。飲物は、1939という数字の入った老酒のぬる燗がおいしかった。 

12月10日 
9時に紀勲初等技術職業訓練学校へ。まずは、副校長と担任の先生と打ち合わせ。海外の学校でワークショップをする時には、事前に先生に対してこちらの意図を十分に説明することが大切だということが、ヨーロッパでの経験を経て分かってきたので,丁寧に行った。僕と愛ちゃんの担当は、午前の90分。まずは、二人で即興で20分ほど踊って,残りの60分をワークショップにあてるという予定だった。愛ちゃんとどこでパフォーマンスするかの場所を下見。即興するには,場所選びが重要だ。少し寒くて雨が降りそうだったが,運動場でやることにした。空気が動いているし,伸びやかな気持ちをみんなで感じられそうな気がしたからだ。10時過ぎ、愛ちゃんと運動場でパフォーマンスを始めた。障がいのある30人の生徒たち,先生,日本から来たメンバー、カメラマンが取り囲んでいる。踊りはじめてすぐ、ふっと後ろを見ると,生徒たちが数人が踊りたそうに近づいてきている。すぐに踊りの輪ができた。輪はあちらこちらへ動いたり,解散したり,また別の場所にあらわれたり、次から次へと踊りの輪が出来た。小雨が降ってきたので,みんなに中に入ろうと踊りながら合図を送った。ちょうど予定時間の20分くらいだった。 

残りの60分は,教室でいろいろとからだを動かした。17歳から25歳の生徒たちは,個性的でパフォーマンス力のある人が多かった。子供よりも,これくらいの年になるといろんな経験を経て,存在に味が出てくる。その存在感を生かしたダンスを引き出しすのが大切だ。最後は,僕が波になって,みんなが海になったり,海の生き物になったりした。11時30分に終了。 

昼ご飯は,職業訓練学校なので、生徒たちが作ったピザ。卒業すると、大手ピザチェーンに就職するメンバーがいるそうだ。それから、水餃子風ワンタンのスープ。どんぶりに10個以上入っている。ごちそう続きだったので、素朴なメニューがうれしい。ピザも水餃子もおいしかった。 

昼からは,山野さんと柳田さんのグループに分かれての美術ワークショップ。柳田さんは脳性麻痺があり,からだの制御が効きにくい。常に首や手、上半身に力が入っていて,からだが律動し続けている。彼のすばらしい絵は見たことがあったので,どうやって描くのか興味があった。柳田さんは、ペアを作って、お互いに顔を描くというワークショップを行った。床に座った柳田さんは、上体を前後左右に揺らしながらも目はしっかり相手を捉え,からだを立体的にスキャンしていく。これだという構図と表情を探っているようだ。やがて、筆記具を手に持って,左手が動き始める。震えながら紙の上を,時には紙のない所まで動きながら,あちらこちらに動いていく。時折,筆記具が紙にあたると、繊細な線が無数に生まれてくる。そして、ここだ、という瞬間に,力強い迷いのないしっかりした線が紙に刻み込まれる。目,鼻,口が、そうでしかない確かさでたち現れる。 

http://d.hatena.ne.jp/rakukaidou/20080201/p1 
http://www.ableartcom.jp/imglist.php?ano=054 

柳田さんの部屋を中心に見たので,山野さんの方はちらっと見るだけだったが,時折気合いを入れる声を上げながら,一心に筆を動かし続けていたようだ。中井さんが,参加メンバーの特徴を見ながら,きめ細かいアドバイスを送っていた。山野さんの絵を描く姿に,だんだんと風格が備わっているように感じた。 

http://www.ableartcom.jp/imglist.php?ano=004 

12月11日 
今日もどんよりしている。上海へ来て,太陽を見ていない。どころか雲も見ていない。ずっとスモッグが立ちこめているのだ。午前中,静安地区にある陽光の家総合福祉センターへ。バスの中では,時折ギギギギと音が聞こえる。マイクロバスの運転手がダッシュボードに、小さなプラスチックケースに入れてコオロギを飼っているのだ。市内の中心部へ。8万人収容の巨大なスタジアムや美術館、マンション群,デパート,ショッピングセンターを通り過ぎる。やっとテレビで見るような上海へ来た感じ。少し落ち着いた界隈へ入ると、マイクロバスは真新しいビルの前に止まった。正確に言うと,ビルは古いんだけど,博覧会のパビリオンのようにきれいにリフォームされているビルの前。耳から細いヘッドマイクをつけた170センチの美人コンパニオンが迎えてくれる。横には,同じく170センチの先輩がサポートというかチェックしている。黄緑色のオブジェやサインボードに書かれた施設のコンセプトを説明していく。播磨さんがつたえ続けた理念が多いに反映されている。エレベータで階を上がっていく。来年の万博に向けて,上海では障がい者の問題への取り組みが進んでいるという。昨日の職業訓練学校もこの陽光の家も、モデルケースなんだろう。上海中で一番いい所なんだろう。播磨さんや岡部さんは,なんども上海へ来ているので,もっといろんな所を見せてもらっているとのことだ。中国での障がい者の立場はまだまだ悲惨で,施設や学校へ来られているのは、軽度で比較的裕福な家族の子供とのことだ。 

3階の部屋へ上がっていくと,障がいのある人たちが部屋の中で作業をしていた。鳩目ホックを台紙にはめる作業。プチプチと1枚に100個ほど留めていく。各自には,能力に応じてノルマが決められているようで,仕上がり具合を検品し,個数を数える係の人間がいる。播磨さんがしゃべりかけてきた。「こういう作業では,誇りを持てないんです。」僕は,通訳の仕事で刑務所の中へ行くこともあるが,同じ風景である。もちろん、工場での流れ作業など、一般の人でも単純作業に従事している人は多い。僕もそんな仕事をしたこともある。しかし、そこでも,僕たちは懸命に創意や工夫を見いだし,自分の作業になにがしかのやりがいを見いだそうとするし、その仕事が社会のために役に立っていると実感することもある。 

播磨さんの希望は,障害のある人,そして彼らに関わる健常の人も、アートによって,人間としての誇りを回復しようということだ。この施設にも,障がいのある人によるアートは展示されている。聴覚障害の人たちの絵は確かにすばらしい。しかし、アートへの取り組みがあまりにもステレオタイプ化している。作風も非常に似通っている。ましてや知的障がいの人のアート作品は全くないのだ。鳩目ホックの横部屋では,マスクの袋詰め作業が行われていた。 

午後からは観光。昼食時に,伊藤愛子さんが体調を崩したので,急遽最寄りのホテルへ駆け込んだ。北野さんと中井さんが看病についた。僕たちは,豫園や新天地に行った。そして、最後の晩餐。上海側は,フォーラムの司会をした周新建さんや上海障碍者連合会国際部のゴッドマザー的な沈立群さんたちが参加してくれた。途中で,岡部さんと沈さんが抜けて,愛ちゃんを病院へ連れて行った。僕は,周さんに僕のワークショップの感想を聞いてみた。周さんはダンサーでもあるのだ。「あなたのワークショップはとてもおもしろかったけれど、あれはダンスではないと思います。」という感想だった。僕は,「あなたのいうダンスとは、どういうものですか。」と聞き返した。周さんにとっては,舞台の上で何人もの人が振りを合わせて行うのがダンスということだった。 

僕は,僕なりのダンス観をじっくりと、まずはブンセイさんに説明した。伝統のこと,ダンスにおける自由のこと,即興のこと,障がいある人の表現の可能性のこと,そして現代の社会においてそういった表現がどういう意味を持つかっていうこと。ブンセイさんは目をクリクリさせながら,僕の話をしっかり聞いてくれて,それを目にも止まらぬ早さでペラペラと周さんに説明しはじめた。今回のフォーラムに備えて彼女は,岡部さんたちとのやり取りを通じて、すでにいろいろ勉強して,興味を持ってくれていたので、かなり理解してくれているようだった。 

次第に周さんの顔が変わりはじめた。たぶん、すぐには理解してもらえないだろうけど,次へつながる手応えは感じた。「あなたがワークショップを通じて,自由を探そうとしていることは分かりました。」と笑顔で言ってくれた。 

病院へ行った愛ちゃんは大事にいたらずにすんだようだった。 

12月12日 
4時30分起床。6時前にホテルを出て空港へ向かった。早朝なので,1時間弱で着いた。5日目になって,はじめて陽光が射した。青空は見えなかったが,雲の向こうに太陽があるのが感じられた。

ジョグジャ、そして上海 (2009/12/07)

12月2日 
9時関空集合。4階の出発口で野村誠さんと薮公美子さんと合流。ガルーダ航空でデンパサールへ。モニターでインドネシア映画を2本見る。デンパサールの国内線出発口近くでクイチャウ・ゴレン(焼ききしめん)を食べて,ジョグジャへ。イウィンさんの弟のアンバルとブナが迎えにきてくれている。タマン・シスワ通りの我が家へ。イウィンさんや家族が出迎えてくれる。下宿をしている筑波大学のエリナさんとも初対面。彼女はISIの舞踊科に留学中。ビールで乾杯しながら,みんなで談笑。天井の高いホールに寝転がるのが気持ちいい。からだがしっとりしてくる。 

12月3日 
朝からジョグジャの愛車キジャン・ローバーでISIへ。やぶちゃんが来年から留学したいというので、その下見が今回の旅の主な目的。彼女は,イギリスのヨーク大学でコミュニティ・ミュージックを研究している時に,ガムランに出会った。先月、ヨーク大学に修士論文を提出したので,一緒に本場のガムランを見に来たのだ。ISIは教官と学生が、台湾ツアーへ30数人出かけているとかで,ちょっと寂しい。それでも、舞踊科とカラウィタン(ガムラン)科を見学。昼前に我が家へ戻る。今年は、秋にISIから6人とプジョクスマン舞踊団から11人が来日して,合同のコンサートを行った。その時のみんなと普段からお世話になっている方々を招いてのパーティ。30人くらいが集まってくれた。我が家に下宿しているベネズエラ人のルイサナさんともやっと会えた。 

ジョグジャで、フェスティバル・ムシック・コンテンポレール(現代音楽フェスティバル)を主催しているマイケル・アスモロさんといろいろとしゃべった。このフェスに、僕と野村さんがやっているキーボード・コレオグラフィーで参加できないかと考えていたが,すこし難しい感じだった。今のところこのフェスティバルでアスモロさんは、ジョグジャの若い世代の音楽家に、西洋の古典的!現代音楽を、まずは学んで欲しいという教育的な意図があるようだった。 

夜は、RRI(国営ラジオ局)のホールで行われていたクトプラ(ガムラン伴奏付き大衆演劇)へ。今まで敬遠していてあまり見ていなかったが,とても面白かった。芸達者な役者が,芝居,歌,ダンスを自由自在に横断していた。笑いを取るのも実にうまい。「桃太郎」のようでもあり、マイケル・ジャクソンのようでもあった。 

12月4日 
マリオボロ通りへ。車を止めて,ワヤン・カンチル(子供ためのワヤン)で有名なルジャルさんの家の前を通りかかると,マルガサリのユリちゃんがルジャルさんとワヤンを並べていた・・・。野村さんとやぶちゃんとパダン料理を食べに行く。テールスープがめっぽううまい。野村さんは汗をダラダラ。アルン・アルン・スラタン(王宮南広場)近くにあるギャラリーへ。野村さんが福岡トリエンナーレで知り合ったジョグジャの芸術家アンキさんが共同で借りているスペース。中庭が気持ちいい。ジョグジャのファイン・アートの人たちは,快適な中庭を作る名人だ。アンキさんは、なかなかぶっ飛んでいて,音楽のイベントも企画しているようだ。ここでも、なにかできそう。 

夜は,ジョグジャから車で1時間のウォノサリで行われているフェスティバル・スンドラタリ(舞踊劇フェスティバル)へ。芸術高校の校長先生であるスナルディさんが車を出してくれた。僕のと2台で,総勢10人で行った。ジョグジャ州の県対抗のコンテストである。イウィンさんは,1998年に最優秀コレオグラファー賞、1999年に最優秀コスチューム賞を取っている。各県の出し物が25分×5県。小道具、大道具,影絵もあり、子供も出てきたりで、かなり賑やかだ。 

23時の終演後,帰りにビーフン・ゴレン(焼きビーフン)とビーフン・ゴドック(汁ビーフン)を出す店に寄ってから帰宅。ブナはフラフラだったが、ビーフン・ゴドックを食べたところで沈没。天井の高いホールで、野村さんとやぶちゃんと感想を語りながら明け方近くまでしゃべった。僕は,留学中から、このスンドラタリがあまり好きではなかった。というか、憎んでもいた。ジャワ舞踊のとても大切なところを削り取っていっているような気がしたからだ。どんどんとテンポが速くなり,動きが派手になっている。今回も,同じような感想を持った。もちろん、所々に面白い試みもあるし,能力の高い舞踊家もいるけれども、全体としては,新しい創作をしようとしているが,あらたな形式がうまれ、そこで停滞している感じなのだ。古典に迫り,超えて行くような何かが感じられないのだ。 

12月5日 
朝からアンバルのバイクを借りて,ブナを後ろに載せて出かける。まずは,1995年の留学中にISIで同期だったちのさんの家へ。彼女はバティックを学んで,その後、ジャワ人と結婚して,一時は広島にも住んで,今はジャワへ戻ってきて,一児の母をしている。その間,何度か会っていたが,しゃべるのは久しぶりだった。留学中は、ビールを一緒に飲める貴重な友人だった。ニティプラヤンのちのさんのお宅から少し南へ,マドキスモ砂糖工場の近くにあるジニさんーとランテップさん夫婦の家へ。ジニーさんは,1996年にISIへ留学へやってきた。1年後輩である。韓国系アメリカ人の彼女とは,その後ずっと関係が続いている。お互いジャワ人の舞踊家と結婚して,子供を持つようになった。舞踊がとても上手な彼女と同じ時期に留学できたことは,僕にとって,とても運命的なことだった。このことは、いずれゆっくり書かねば・・・。彼女たちには,ジーファンとモーハンという二人の男の子がいる。半年違いのブナとジーファンは、互いに意識しながら育ってきている。久々の再会,5歳と6歳の二人は自我が芽生えはじめたのか、はじめは照れくさそうにしていたが,3歳のモーハンが元気にはしゃいでいると、やがて気持ちがほぐれてきたようだった。 

昼からは,みんなで買い物に出かけ,あっと言う間に夕方に。アスモロさんがやってきた。付き合いがいいなぁ。ちのさんと息子さんのセトくんもやってきた。ジャワで大きくなったけど,お母さんとは日本語で話しているので,スムーズな日本語を話す。はにかむ様子がかわいい。7時になった,みんなバイバイ。また、近いうちにやってきます!! 

12月7日 
夕方まで,大阪刑務所で通訳の仕事。明日からは,なんと上海へ。「日中の障碍者による文化創造と社会参加」というイベントに参加することになっている。奈良のたんぽぽの家と福岡の工房まるのみなさんと、フォーラムとワークショップに参加する予定。僕は、伊藤愛子さんとパフォーマンスとワークショップをする。上海でも,ペットボトルや波をやってみようかな?また,報告します。パッキングをしなければ・・・。

ルマ・パンジャン(長い家) (2009/12/01)

11月28日 

インドネシア人の元慰安婦スハルティさんの証言、インドネシア人慰安婦問題の研究家であるエカ・ヒンドラティさんの講演,さらにインドネシアに17年滞在されて、慰安婦問題にも取り組まれている木村公一牧師の話が、大阪商工会館であった。主催は,大阪AALA(アジア・アフリカ・ラテンアメリカ)。僕は、通訳として参加した。 

木村牧師による紹介の後,80歳になる車いすに乗ったスハルティさんが話をはじめた。僕は、スハルティさんの顔の真横、やや後ろに座って,通訳を始めた。通訳する時の感覚は、すこし即興で踊る時と似ている。頭をクリアにして,耳を澄まし,ピーンと集中して,インドネシア語の声を聴き取って行く。インドネシア語は,文節の固まりぐらいでどんどん日本語になって行く。文章を聞きながら、文節を組み立てながら、仮の文章を口から流していく。自分の頭を受信機にして,変換機にして,話者のことばを受け取って行くという受信機的な状態でありながら,自分が語りつつある文章の中に、矛盾点がないかがチェックされていく。矛盾点が生まれた時に,赤いランプが点灯する感じ。同時に,言葉の使い回しがきつすぎないか,弱すぎないかなども,言葉を口から出しながら、センサーをくぐらせていってチェックし、文章を完成させていく感じ。地面に杖で引っかかりながら,走っていく感じ。頭が受像機の状態になっているので,話者の感情も入ってきやすい。ちょっといたこみたい。 

スタート 

15歳の時,各村から50人供出しなければならないという日本軍の命令があると,村長代理が人探しにやってくる。学校へ通わせてやると嘘をつかれ,家族と引き離され,スラバヤへ連れて行かれる。船に乗り,3日3晩かかってボルネオ島のバリクパパンに到着する。 

ここまでの話でも,細部至る説明が加わるので,かなり長い。 

港からトラックで連れて行かれたところが慰安所だと分かり,だまされたことを知る。そして、最初の日本人がやってくる。油田の町サンガサンガからやってきた日本人のOが自分を指名し,ホテルへ連れて帰る。そして、セックスがなんであるかも知らない私が,レイプされる。1週間近く,つくすことを要求され続ける。 

スハルティさんの声が詰まる。僕も一緒だ。 

その後,慰安所に戻り、1時間にひとり,1日10時間10人に対する奉仕が始まる。(軍票が配られるだけで,彼女には1銭も支払われない。)数ヶ月たち,戦火がひどくなる。日本兵もいなくなる。慰安所は閉鎖されることになる。ジャワに帰りたいが、戦火で船はないという。とにかくバンジャルマシンのこの住所のところへ行けと,慰安所の責任者から手紙を渡される。ジャングルの道なき道を歩き始める。何日かかるのかも分からない。疲れれば,木の下で寝、体力が回復するまで2、3日休み,再び歩き出すという繰り返し。途中でダヤック人に出会うこともあり,シンコン(キャッサバ)やバナナを分けてもらう。そして、50日以上かけて,バンジャルマシンの近くの村に到着する。村の端にしゃがんでいると,やがて村人の輪ができる。部族の長の家へ連れて行かれる。バンジャルマシンへ行きたいことを告げると,長の計らいで,ゴムを運ぶトラックへ乗せてもらう。住所を運転手へ見せると,そこは立ち入り禁止区域だと言う。最後の200メートルを歩いて、ルマ・パンジャン(長い家)へ到着する。掃除夫と話し,妻の料理人に食べ物を分けてもらう。するとそこへ、ルマ・パンジャンから20人ほどの少女がやってくる。直感的に同じ境遇であることを互いに察知し,少女たちが,駆けつけて抱きしめてくれる。数日たつと,日本人のTが現れる。そして、このルマ・パンジャン(慰安所)で、再び慰安婦として,戦争が終わるまでの数ヶ月働くことになってしまう。戦後は,しばらくバンジャルマシンのレストランで働き,その後、結婚する。夫の仕事について,あちらこちら転勤する。それから数年経って,やっと故郷のジャワへ戻った。 

休憩後,エカさんが自分の活動のことを話す。30代半ばの快活な女性だ。ジャカルタの日本大使館前で最前列でデモをする姿をテレビのニュースで流されて,有名になってしまったと笑っている。その時に、インドネシア政府の社会省の汚職について抗議した姿も映っていて,その後で社会省に行った時、「あなたがあのエカだね。」と名指しされたそうだ。とってもたくましい美人。 

どうして、慰安婦問題に取り組むようになったのか,木村牧師との共著「MOMOYE  MEREKA MEMANGGILKU(モモエ 彼らは私をそう呼んだ)」,慰安婦問題の歴史,両国政府の約束によってできたアジア女性基金の欺瞞、汚職、そして現在に至るまで拉致され続けられているマルク州ブル島の慰安婦についてなどを、早口で、力強く時にはアジるように語った。 

短い打ち合わせしかできなかったので,苦労したが、なんとか通訳終了。 

14時に始まった会は、17時に終わった。 

11月29日 
近鉄電車で、名古屋へ向かった。スハルティさん、エカさん、付き添いのアヌグラさん、木村牧師、そして僕。電車の中で,昨日のスハルティさんの話を聞いて浮かんだ疑問を聞いてみた。 

50日間のジャングルでの苦難を経て,トラックで200メートル手前に下ろされてルマ・パンジャンを見た時に,スハルティさんたちは直感的にそれが慰安所であると分からなかったのだろうか。どうして、再び慰安所に自分たちから行ってしまったのだろう,という疑問である。 

木村牧師がうなった。それが悲劇なんだと。 

慰安所は,とても過酷な場所であったが,戦時中で家族から離れた彼女たちにとっては、生活の保障をしてくれる場でもあった。また、彼女たちには、権力と暴力を背景とした日本軍からは逃れられないという恐怖心もあっただろう、と。 

車内で,エカさんの著書「MOMOYE  MEREKA MEMANGGILKU(モモエ 彼らは私をそう呼んだ)」を読んだ。ここで描かれているのは,バンジャルマシンの慰安所にいたマルディエムさんだ。本には,スハルティさんも出てくる。つらい体験が描かれているが,慰安所の日常も描かれている。 

昼頃,会場の桜花会館到着。なんと皮肉にも,日本軍と縁が深い会場である。スケジュールと内容は、ほぼ昨日と同じ,僕自身は、2回目だったので,昨日よりはうまく通訳ができた。聴衆は,150人ほど。終演後,喫茶室で軽食を食べ,名古屋駅へ。スハルティさんたちはそのまま東京へ。翌日は,衆議院会館での証言だ。超ハードスケジュールである。僕は、神戸のHIROSさんの家へ向かった。あまりにズシンとくる話を聞いたので,こころのにじみを少し吸い取ってもらおうと思ったのだ。なるべく多くの人に聞いてもらって,考えてもらいたいテーマである。東京,福岡、鹿児島へ回る予定。 

アジア女性基金 
http://www.awf.or.jp/index.html 

各地での日程 
http://blogs.yahoo.co.jp/siminkjp/30551885.html 

大阪での様子 
http://87115444.at.webry.info/200911/article_18.html 

日本語読めるインドネシア慰安婦問題の本 マルディエムさんのことが描かれている 
http://www.honya-town.co.jp/hst/HTdispatch?author=%82%60%81D%83u%83f%83B%81E%83n%83%8B%83g%83m 

マルディエムさんのドキュメンタリー映画 
http://kanatomoko.jp/maru/mal_kaisetsu.html

プライベート美術館 (2009/11/26)

11月25日 
7時前に家を出て,関空へ。イウィンさんとブナは今日からインドネシア。11時発のガルーダに乗って行ってしまった。僕は12月2日に出発,それまでしばしの息抜き。心斎橋近くまで戻って,車をパーキングに入れる。6時間1000円。たんぽぽの家の森下さんに聞いていたプライベート美術館へ。障害のあるアーティストの絵画作品を、南船場にあるアパレル,雑貨,カフェ,花屋さんなどに展示しているイベント。 

プライベート美術館@大阪・南船場 主催エイブルアート・カンパニー 
http://www.ableartcom.jp/newsb/index.php?e=49 

御堂筋と阪神高速に挟まれた南船場は碁盤の目のように道が走っている。僕は南西角にいたので,あみだくじのように北東角にある難波神社を目指すことにした。まずは、45Rという服屋へ。こんなオサレな店に入るのは久々だなあ。なんとなく照れくさいので,「絵を見にきました。」と告白。「どうぞ、どうぞ。」と作品の前に案内してくれた。柳田烈伸さんの作品が3点かかっている。揺らぐような線だが,力強く,デッサンポイのントを押さえている。表情や目線が生きている。滲んだ水彩もすばらしい。絵の前には,服がかかっている。「服と絵が合っていますね。」と店員さんに言うと、「そうなんです。合わせたんです。」とキラキラとした目で答えてくれる。デニム地にこだわっていることや、売る前にしわを消したり風合いを出すために、一度洗濯することなどを教えてくれた。「今日は休みですか。」と聞くので,僕の話になった。ダンスやピクニックの話をとても興味を持って聞いてくれた。「この部屋でもピクニックできますよ。」と言うと,「どうぞどうぞ。」とすすめてくれた。神棚,立派な1枚板,洗濯機、ミシン,靴べら、そして服,どれもこだわりが感じられた。とても気持ちのいい時間を過ごした。お話をしてくれた女性のTさんは店長とのことだった。 

少し,北上して花屋のMusee de Fleurへ。クリスマスのデコレーションが始まっている。赤が鮮やかだ。一歩入ると、ムアッと香りが胸に深く入ってきた。花をよけながら奥に伸びた狭い通路を入って行く。店長さんとリースを作っている女性が二人。壁には、藤橋貴之さんの色鉛筆絵画がかかっていた。藤橋さんの絵は前にも見たことがあったが,花の色と相まって,一層と鮮やかに見えた。たくさんの人が街の真ん中の凍った池でスケートをしていた。空には月が上がり,星が雪になって中央のクリマスツリーに降り積もっていた。店長さんが、1枚1枚丁寧に絵を説明してくれた。 

あみだくじを右へ曲がって、イッセイミヤケのELTTOB TEPへ。白い壁がスタイリッシュな店内。レジの向こうに,たんぽぽの家の山野将志さんの絵がかかっていた。山野君とは月に2回ダンスをする仲である。ウェブで見ていたより,断然色がいい。話しかけてきてくれた店員のMさんとゆっくりと絵を見て回った。白い壁のシンプルで研ぎすまされた空間に山野君の絵が映えていた。原色に近いパステル調の色が絶妙な配色になっていた。Mさんは奈良に住んでいるので,またたんぽぽへも遊びに来ると言っていた。「ダンスができないんですぅ。」というMさんに、「店の白い床に、無数の靴の跡が作った川もダンスですよ。」と言うと、目を丸くしていた。 

ここまで回って、あんまり面白いので,歩きながらたんぽぽの岡部太郎さんに電話をした。 

しかし、面白いのはここまでだった。他にも何件か店に入ったが,作品と店がコラボしていなかった。店員さんの心が開いていなくて,会話しようという空気が生まれていなかった。作品に関する敬意があまり感じられなかった。 

もちろん、お店は商売をしているので、店の理屈もあるだろう。店長はともかく,店員を育てるにはマニュアルも必要だろう。でも、こんなに個性的な絵を店に飾るんだったら,いつもと違う何かが生まれるのをもっと楽しむ遊びや余裕があってもいいんじゃないかな。きっとそのことは商売のプラスにもなるような気がするんだけど・・・。会期は、まだまだ残っている,なにか変化が起こればいいなあ。

続秘密工場 非常事態 (2009/11/24) 

11月24日 
ブナを保育所へ送って行って,秘密工場のパトロールへ。霧が濃い。 
空気中にミストが漂っている。 
秘密工場へ到着。 
道路から畦を通って接近してみた。そおっと、そおっと。 
最接近、もう少しで気づかれそうだった。 
作業している人がいたので、一旦森のパトロールへ。 
メタセコイアがみっつ並んでいる。 
こっちは岩場に並んだイチョウの巨木。
こっちは、ブナが来春から通う小学校前のメタセコイア。 
小学校前のヒマラヤ杉。 
そして、秘密工場へもどると、 
しまった!!! すでに!!! 
もぬけの殻。 
実は、 
http://blogs.yahoo.co.jp/wknbt391/30223973.html 
こういうブログを発見。 
なるほど、そういうことだったのか。 
みなさんの近くに大仏君行っていませんか?

秘密工場! (2009/11/24)

11月18日 
ブナを保育所へ送りに行った帰り,車で普段あまりとおらない道を久々に通った。 

すると、なんだこれは。 

明日,もう一度見に行ってみよう!

伸びるイチョウ (2009/11/18)

11月15日 
大分へ。28年前に、詩人の故谷川雁さんが設立した「ものがたり文化の会」の大分支部へワークショップをしに行った。この日記を通じて知り合った温水晶子さんが企画してくれた。「ものがたり文化の会」は、子供からおとなまでが定期的に集まって、自然やアートに触れる活動を行っている。宮沢賢治の童話をもとに、からだを使ってものがたりを表現する「人体交響楽」という試みもやっている。 

10時前、会場に到着。公民館のスタジオに子供からおとなまで11人が集まっている。まずは、僕が自己紹介。小学校と中学校の間の春休みに大分へ来たことがあるという話から、ガムランとの出会い、舞踊との出会いなどを30分くらいかけてゆっくりと話した。それから、参加メンバーに自己紹介をしてもらった。中学生から、孫のいる方までいて、親子が2組、兄弟が1組いた。28年前の設立以前から一緒にやっている人もいるし、子供の頃から参加していて、社会人になった人もいる。みんな人生の長い時間をともに過ごしてきたメンバーなのだ。とても濃いメンバーだ。 

それから、ペットボトルのワーク。半分に入れた水をたっぷん、たっぷんさせたり、からだに載せていろいろ動いてみる。みんなすごい集中力、いろいろと新しい試みも発見してくれる。たっぷん、たっぷんは、頭の上に載せてやると楽しいとか。空気イスをして、膝やつま先にペットボトルをたくさん載せてみるとか。からだにペットボトルを載せるのは、9本の記録が出た。 

昼食を挟んで、午後からもいろいろとからだを動かした。午後からは、参加メンバーが3人増えた。今日は、「見えない/見えにくいものを感じて、動く。」ことをテーマにした。事前にもらったDVDで「人体交響楽」を見たときに思ったのは、面白い試みなんだけど、見えないもの(たとえば、風)の表現が、ちょっと惜しい感じだな・・・、ということだった。何か決まりきった常套的な動きのようになっている。「からだでやるっていったって、なかなか・・・、難しいんだよな。」「なんとかやってみたいだけど、どうやったらいいのかな・・・。」という感じが伝わってきた。トライしたい気持ち、あふれるエネルギーはあるんだけど、どうやったらいいんだろう、というためらいともどかしさ。 

もちろん、風をからだで表現しろっていたって、難しい。僕だってそう思う。でも、踊りを続けているうちに、風だって、雲だって、月の動きだって、自分がしっかりとしたイメージを持って、ちゃんとリアルに感じて、動けば、見る人には伝わるんだってことが分かってきた。見る人と幻想を共有するためには、自然の摂理に従うことや感覚を研ぎすますことが必要だし、それを動きに結びつけるリッラクスしたしなやかなからだが必要だ。そして、なによりも表現する人は、見る人には想像力があるんだということを信じる勇気が必要だってことが分かってきた。 

午後からは、引き続きからだを動かしたり、伊藤愛子さんとの即興のビデオを見たり、僕がジャワ舞踊を踊ったりした。17時過ぎにワークショップは終了。その後、お菓子を食べながら、表現についての話が続いた。打ち上げは、参加メンバーのひとりである誠さんが育てた鶏と卵を使っているとり料理の店だった。ワークショップには参加しなかったけれど、「ものがたり文化の会」メンバーの哲一郎さんが働いている店で、彼も打ち上げには参加してくれた。青年海外協力隊でアフリカのガボンから帰国したばっかりの裕介さんも駆けつけた。 

ささみ肉のカルパッチョ、もも肉の炭火焼、つくねと鶏肉の鍋、そして卵を使ったおじや、どれも最高においしかった。 

この日に出会った人たちは、本当にみんないい顔をしていた。悩みを抱えた中高生、悩みながらも歩きはじめた20代の青年たち、30代、40代、そして無敵のおばさまたち。 

11月16日 
9時30分に大分駅で、温水晶子さんと待ち合わせ。晶子さんおすすめの柞原(ゆすはら)神社へ。階段を上がると、右側に大きなホルトノキ。ざらざらとした樹皮、幹は太い丸みがあり、たくましい曲線を描いている。上を見上げれば、はるか上空に枝を大きく広げている。ホルトノキでは、樹高は日本一。晶子さんが一番好きな木だと言う。左側には、クスノキ。こちらは樹齢3000年、大きさは全国7位。根元は力強く大地をつかんでいるが、大きなウロができている。幹は力強い直線と短い曲線。こちらも本当に大きくて美しい。 

少し行くと左手の木立の中にお稲荷さん。地面からすくっと伸びた1メートルほどの茎の先に、枯れた花のようなものが付いている。よく見ると、3枚の皮でできたラグビーボールが先端からはじけたような形。皮と皮との間には、引き裂かれた筋が残っている。中には3つの部屋があり、グラシン紙に挟んだ記念切手のような種子が積み重ねられた本のように何十枚もぎっしりと並んでいる。茎を指ではじくと乾いた音が鳴った。何度かつま弾いていると、一番上の切手が隙間からスルッと抜け出して、ハラハラと飛んで行った。小刻みに揺すると次から次へと手品師のトランプのように種子が飛んで行った。風の道が見えた。 

風の道の先には、小動物の亡骸があり、小さな牙が見えていた。その先には、笹の枝が飛び出していて、クモが獲物を待っていた。笹の先端から張られた糸に触れると、張力がかかっていて、しなやかだった。放射状に張られた縦糸に対して同心円上に張られた横糸を触ると、柔らかでネバネバしていた。木立のあちらこちらに残った主のいないクモの糸には、丸いもの、長いもの、いろんなものがぶら下がってモビールになって揺れていた。 

カラスの羽が落ちていた。手に持つと、風が切れていく。羽が勝手に踊っている。参道へ戻ると、石の階段の両側に、ナンテンが赤い実を付けている。赤い実を階段の上から転がしてみる。そして、僕も一緒に転がった。ゴロゴロ、コロコロコロ。階段に腰掛けて、一休み。コーヒーを飲んで、ケーキを食べて、晶子さんと小さい頃の話をした。勝手に動く、木の枝に付いた白い繭のお話とかとか。拝殿でお祈りした。ツグミがたくさん鳴いた。帰りは、別の急な階段を下った。大きな大きな杉が並んでいる。杉の奥にイチョウがちらりと見えた。近づいて行くと、大きなイチョウだった。2本あった。右のイチョウは、懸命に枝を左のイチョウに伸ばしていた。左のイチョウは上へ上へと伸びていた。イチョウの夫婦だねと言い合った。イチョウの夫婦には子供がいた。お母さんから少し離れたところに立っていた。お母さんは、そちらへも大きく枝を伸ばしていた。お母さんの幹に唇を当てるととても暖かかった。 

晶子さんの電話が鳴った。子供が熱を出したようだった。気づけば、神社に来て3時間が経っていた。 

大分駅まで送ってもらった。駅で、とり天定食を食べた。バスの待合所のベンチに座って、野村誠さんから返してもらった「魅せられた身体」小沼純一(青土社)の続きを読んだ。バリの少年サンピ、ジャワの4人の舞姫、パリの万国博覧会、マイルス・デイビス・・・。飛行機の窓から、ビロードのような雲が見えていた。風が優しく通り抜けた模様を作っていた。本を置いて、雲を眺め続けた。飛行機が高度を下げると、雲が途切れ、不意に、光がちりばめられた夕暮れの大阪があらわれた。

マグランガンとそばめし (2009/11/12)

11月11日 
僕の舞踊教室に来ていた川原和世さんの結婚パーティへ。 
和世さんは、スペース天で僕とイウィンさんが踊っているのを見て、ジャワ舞踊を習いはじめ、その後、ジャワへも舞踊留学し、帰国してからも教室に通っていた。数ヶ月前に、Facebookというインドネシア人がたくさん参加しているミクシイやMy Spaceみたいなのがあるよ、と彼女に教えた。すると、いつの間にかそこでインドネシア人男性と意気投合し、インドネシアでデートもしたりして、一気にゴールインに持ち込んだ。ジャワ舞踊へも、Facebookへも引き込んだのは僕のなのだ・・・。 

トゥリスノさんは、ボルブドゥールの近くにある中部ジャワの地方都市マグランに住んでいる中華系インドネシア人。医学部を出て、東ティモールでも医師団として働いていた。現在は、マグランで家業の建築資材店を営んでいる。和世さんすごい!玉の輿ではないか。マグランからジョグジャは、車で1時間ちょっとなので、舞踊だって習いにいける。 

責任上、いや責任はないのだが、行きがかり上、僕が乾杯の音頭をとることに。何を話そうかと考えていたら、こんなことを思い出した。 


えっと、トリスノさん。マス・チュ(チュさん 彼の中国式の呼び名 でもマスはジャワ風)と、お呼びしたらいいのかな? は、ジャワのマグラン出身ですよね。マグランといえば、マグランガンという食べ物を思い出します。これは、ナシ・ゴレン(インドネシア風焼き飯)とミー・ゴレン(インドネシア風焼きそば)が混ざった食べ物なんです。ナシ・ゴレンも食べたいし、ミー・ゴレンも食べたいなぁ、という時に食べるもんなんでしょうね。ちょっと優柔不断な感じの食べ物なんです・・・。 

で、和世さんは、神戸の長田出身なんです。長田と言えば、そばめしですよね。焼き飯とそばが一体化した・・・。つまり、どちらの出身地にもそばめしがあるんです。これまで、マグランガンというのは、優柔不断な食べ物なのかと思っていたのですが、考えようによっては、違う種類のものが歩み寄ってできた食べ物とも考えられます。そういう食べ物があるところ出身のお二人なので、きっとお互いに歩み寄ってうまく行くのではないかと思います・・・。 

とかなんとか、しょうもない話をしてしまって、 

カンパーイ!! 

となりました。 


僕は、車で来ていたし、踊ることにもなっていたので、ウーロン茶をチビリチビリ、ごちそうも横目にガマンガマン。まぁ、いつものこと、踊り子の宿命。和世さんも以前は参加していた妹さんのダンスチームが爆笑パワフルダンスを披露。新婦も途中からノリノリで参加。その後で、僕はトペン(仮面)舞踊を踊った。賑やかないいパーティになった。11月15日に、ふたりはジャワへ出発する。和世さんのジャワでの田舎生活がスタートするのだ。末永くお幸せに!!12月にジャワへ行くので、ちょっと様子を見に行ってみよう。

コンサートの翌日、ゆず畑 (2009/11/10)

日記は、ますます錯綜しますが、今日のリアルタイムの日記です。 

11月9日 
昨日は、スペース天で、「さんずいのはじまり」というコンサート。 
身体性、即興、コラボレーションを軸に活動してきたマルガサリのあらたなるステップに向けてのコンサート。ジャワの伝統曲、ディヴィド・コットロウイ、三輪眞弘、ジョンケージ、佐久間新(監修)というなんともディープなラインナップ。僕は、ジャワの伝統舞踊、「愛の讃歌」(三輪眞弘)、「SANZUI」(佐久間新)で、踊った。


「愛の讃歌」は、2進法の演算を元に構成されている。規則的な配列を下敷きにして、歌やルバーブがもう少し自由な感じで絡んでいく。特にルバーブはかなり即興的だ。舞踊は、複数で踊る場合は、規則的なパターンのパートと、即興的なパートに分かれる。ひとりで踊った先日の日本音楽学会のときは、僕はひとりで両方のパートを行き来してみた。今回は、二人だったけれど、半ば突発的に踊ることになったので、二人で即興的なパートを踊った。前日のリハで、ひとりで踊っていたときに、アカシジアというMさんが悩んでいる病気をヒントに踊ってみた。アカシジアとは、手足が、自分のもので無いような感覚になるという症状だ。僕も小中学校くらいのときに、それとはしらずに出ていた症状だった。僕の場合は、軽いもので、全然悩んだりはしていなかったのだけど・・・。「愛の讃歌」において、規則的な配列を逸脱するためには、病や感情や狂気がひとつの契機になるのではないかと思っているので、Mさんが入るのも面白い試みだと思った。実際に、後半は、自分でも思っていない方向にダンスが進みはじめ、とてもいい壊れ具合になったような・・・。 

この他の演目についての感想も書きたいが、また別の機会に。 

コンサートを聴きに、横浜からコットロウイさんが来てくれた。結局は、自分の作品にも演奏家として出演してくれた。その後、我が家へ泊った。今日は、一緒に京都へピクニックへ行った。イウィンさんはパートを休んで、ブナも保育所をさぼって一緒に行った。 

豊能の家を出て、亀岡~八木町から嵐山へ抜ける細い山道へ。紅葉を見ながら進むと、一面のゆず畑へ。民家の脇へ駐車して休憩しているとゆず畑の所有者のおじさんがやってきて、ゆずをもいでくれた。今年は豊作だそう。JR保津峡駅でちょっと休憩して、嵯峨から広沢池経由で金閣寺の方へ抜けた。そこで回転寿しの昼食。コットロウイさんははじめてで、しかもベジタリアンだったが、嬉々としてモニターを操作して、納豆、キュウリ巻き、梅しそ巻き、焼きなす、出し巻きなどたくさん食べた。北大路を経て、京都造形大学へ。山沿いの校舎を一番上まで上ると、京都市内の北部が一望できるのだ。今から20年近く前、中川真さんに連れられて、ここでビル・フォンタナのインスタレーションや鈴木昭男さんの即興を体験した。それ以来、ここは僕のお気に入りの場所になっている。白川通を南下して、永観堂へ。紅葉には、1週間早いかなという感じだったが、緑から移ろう感じがそれはそれできれいだった。永観堂から岡崎へと疎水沿いに歩いた。ここがなんとも最高だった。 

3時30分に約束があるというコットロウイさんを宿泊先の「憩いの家」へ送って行った。六条通新町にある非常にこじんまりとした外国人がたくさん泊っている宿だった。そこで、コットロウイさんと分かれ帰宅。夕食は、今朝家から徒歩1分の朝市で買った野菜と地元の鶏肉の鍋にした。もらったゆずをたっぷりしぼった。あー、おいしかった。コンサートの翌日ののんびりした1日だった。

ブダペスト〜ペルヒトルツドルフ (2009/11/05)

日記の時間が錯綜しまくっています。すみません。これは、9月に行ったI-Picnic中欧ツアーの日記です。ハンガリーからウィーン近郊のペルヒトルツドルフに戻って、ワークショップとコンサートをしました。 

9月17日 
何度か目を覚ましながら、7時前に起床。今日は天気が良さそうだ。昨夜ベジが作ったカレーを温め直して食べた。アトムが8時過ぎに迎えにきた。リラも合流して、徒歩でブダの丘へ向かった。丘の上にある城からブダペスト市内を見渡した。昨日の雨から一転していい天気だった。ドナウにはいくつも立派な橋が架かり、少しかすんだ空気の向こうに古い町並みが広がっていた。城の崖の下から吹き上げる風に鳩がたわむれていた。 

アトムが仕事で帰り、ベジがやってきた。アトムは貧しいけれど自由な仕事についていて、ベジはリッチな法律事務所で働いているとのことだった。リラは長くルフトハンザ航空で通訳として働いていたけど、事務に仕事が変わり、忙しい上に仕事が面白くなく、今回、数ヶ月ぶりに有給休暇を取ったそうだった。転職や結婚のことを考えているようだが、ブダペストは女性の人口の方が多いらしく、もういい男は残っていないとのことだった。外国人はどうなのかと聞くと、ハンガリー人でないと嫌だと即答した。リラのように海外生活を経験していたり、外国語が堪能でも、ハンガリーは独自の言葉や文化を持つからコミュニティが濃いのかなと思った。そんなところもジャワと似ている。 

ベジのワゴンに乗って、彼の家へ。市内中心部の公園に近い住宅地域。古い重厚なアパートの中庭に面している。家の中にしつらえた調度品は新しくて立派だった。所々にバリやジャワのお面やワヤンや布がある。応接間にはインコがいて、大きなタンスほどもあるあつらえた鳥かごが立派だった。書斎に荷物を置いて、徒歩で美術館へ向かった。途中、ハンガリーの農村祭りがあり、ナイフなどの工芸品や蜂蜜、ケーキ、シュナップス、ワインなどの食べ物の屋台が出ていた。特設舞台では民族舞踊のコンサート、移動式の小さな舞台では人形遣が賑やかに芸を披露していた。めちゃくちゃしょうもない芸だが、話術とからだの力量で通行人を引き止めていた。 

公園を抜けていくと、国立美術館へ到着。イタリア美術史が専門の幸弘さんがお目当てのバンコの絵を、まず見に行った。栄華を極めた王国の美術館は、あっちでもこっちでもガムランをやって、舞踊したらいいだろうな、という場所だらけだった。幸弘さんに案内してもらって絵を見るのは楽しかった。同じ時期のフレスコ画家でも、作家によって全然美的な感覚が違って、「この絵はどう思います、佐久間さん?」と聞かれると、自分の美的感覚が問われているようでドキドキしたが、幸弘教授によると僕のセンスもなかなかいい線をいっているようだった。 

常設展だけでも到底見切れないんだけど、もうひとつの楽しみだった同じ公園内にあるセーチェニ温泉へ。入場料を払って、水着を借りて、個室で着替えた。あちらこちらに白衣を着た係員が立っていた。しかし、どこからみてもプールである。みんな水着を着て、寝転んでビールを飲んだり、ガイドブックにあるみたいにチェスをしていたり・・・。でも、泳いでいる人はいなかった。みんなぼ~としていたり、ゆっくりと水の中を歩いたり。天気もよかったし、とにかくのんびりくつろいだ雰囲気が最高だった。屋外のプール温泉は35度くらい。室内にはもう少し温度の高い小型のプール温泉やサウナ室があった。 

温泉から上がって、ふたたびベジの家へ。荷物をピックアップしていると、なんと彼がワインをプレゼントしてくれた。中身を見て、リラが「エッ!!」とびっくりしている。トカイ産の貴腐ワイン。高いらしい・・・。ベジの車で近くにあるブダペスト・ケレティ(東)駅へ。チケットはこっちで買う方が、ウィーンで買うよりかなり安かった。駅のプラットホームで、今回会えななかった留学時代の友人ジョルカ、ドルチェ、そしてハーディガーディ制作者・演奏者のバラージュと電話で話をした。その間に、誠さん、幸弘さん、藪ちゃんがケバブのはいったサンドウィッチを買ってきてくれた。行きよりもずっときれいな電車に乗り込んだ。リラとベジを電車が走り出すまで、ずっと見送ってくれた。またきっと来るよ!! 


車内で、明日からワークショップをする主催者のマリアさんに何度も電話するがなかなかつながらない。オーストリアへ入って、もうすぐでウィーンというところでやっと連絡が取れる。20時過ぎ、ウィーン西駅に着くと、ホームでマリアさんとI-Picnicメンバーのアナンさんが出迎えてくれた。マリアさんは音楽の先生だが、タイで暮らしたことがあり、その時にアナンさんからタイ音楽を習ったのだ。今回は、マリアさんが企画して、彼女の勤めるウィーンから南へ10数キロのペルヒトルツドルフにある音楽学校でワークショップをすることになっていたのだ。ホイリゲ(ワインを出す居酒屋)で有名な街とのことだ。町の中心にある2カ所のペンションに分かれることになった。僕と幸弘さんは、フェルナーというペンションにチェックインした。木目と白い壁がすてきな気持ちのいい宿だった。 

マリアさんがすぐ近くにあるホイリゲに案内してくれた。しばらくすると、夫で指揮者のトニーさんがやってきた。もちろん白ワインで乾杯。誠さんは飲めないので、ミネラルバッサー(水)。うーん、おいしい!。車の運転もおしゃべりもテキパキ・ハキハキのマリアさんといつもニコニコのトニーさん夫婦を見ているだけでも楽しい。トニーさんはイングランド生まれだが、ドイツ語圏での生活の方が長くなり、お母さんから「お前の英語はすっかりドイツなまりになってるよ!」と嘆かれているそうだ。マリアさんの説明で、明日の予定、出席者などが分かってきた。部屋へ戻ってからは、コーラのペットボトルからミネラルバッサーのペットボトルへ入れ替えたベジの自家製シュナップスで、幸弘さんとチビチビ。 

9月19日 
ペンションで朝食。おかみさんがいろいろ世話を焼いてくれる。何しにきたのかと言うので、食堂でちょこっと踊ると、喜んでくれた。歩いて誠さんたちのホテルへ向かうが道に迷ってしまい、マリアさんを呼び出す。すごく分かりやすいのに・・・。みんなで歩いて音楽学校へ。ワークショップの参加者は、この学校の先生やウィーンなど近隣の小学校の音楽の先生やその子どもたち10人くらい。土曜日の午前と午後3時間ずつ、日曜日の午前3時間、そして教会でプレゼンテーションという盛りだくさんの内容。僕たちにとってもクレムスでの前哨戦である。 

まずは、I-Picnicの活動の紹介。幸弘さんが撮影・編集したDVD「Over the Danau」と「I-Picnic in Krems」を見る。昼食はみんなで歩いていけるホイリゲへ。ワインもうまいがブドウジュースもうまい。料理はレジの近くで注文をして、自分で運ぶシステム。中庭のテーブルで、キノコのキッシュとサラダを食べた。庭には、ぶどうやナシがなっていて食べ放題。 

昼からは、アナンさん、僕、誠さんのそれぞれがリードする時間を設けた。みんなで庭へ出て野外即興をした。池に入ったり、木をゆらしたり、彫刻に登ったり・・・。教会の鐘がなると、鴨が一斉に飛んでいったりして、とても気持ちよかった。2年前のクレムスのワークショップ参加者もそうだったが、一度火がつくと盛り上がってなかなか終わらないのが、オーストリア人気質かもしれない。僕は、ここのところ自分のテーマになっている「波」「振り子」などをやってみた。 

夜は、アナンさんのリクエストで中華料理屋へ。タイ人でグルメの彼は、ご飯や麺がすぐに恋しくなるのだ。中華屋のおかみはカンボジア生まれらしく、カンボジアの話でアナンさんと盛り上がった。明日のプレゼンテーションにも来てくれることになった。料理は、う~ん・・・まあ?という感じだった。なぜかナシゴレンやミーゴレンというインドネシア語のメニューがあった。 

9月20日 
引き続きワークショップ。タイ語の5声(発音の高低)を利用した作曲も行なった。午後からは、教会でプレゼンテーション。ペルヒトルツドルフの中心にある古い教会が会場。誠さんは、教会のパイプオルガンに向き合って、メロディカの音を天井へ次々と放り投げた行った。アナンさんは上半身裸になって、ピアと言うカンボジアの楽器を、ココナッツの殻が共鳴体になった部分を胸に当てて、ささやくように歌いながらゆっくりと教会の内部を一周した。僕は、参加者と聴衆に向かって「波」を送った。波にさらわれてすぐにこけてしまう子ども、心地よく波に乗る音楽の先生、なんとか波を受け取ろうとする指揮者、みんなが「波」になった。 

夕方、やっぱりホイリゲへ。指揮者のトニーさんが、オーストリアでは書かれた音楽の教育ばかりなので、今回のような試みはとても意義があるし、僕の「波」の試みも指揮と関係が深いと言ってくれた。 
クレムスのフェスティバルから迎えがやってきた。大きなバンに乗り込んで、さあいよいよクレムスへ。 

高速道路を120キロで飛ばして1時間ちょっと、クレムスに到着。Arte Hotel(アート ホテル)。現代的な建築のホテル、2年前に泊ったアットホームなホテルとは大違いだ。ジュニア・スイートの部屋に幸弘さんと泊まることになった。よくデザインされた部屋だった。今回は、とことん幸弘さんとつきあう覚悟。この日もベジの自家製シュナップスで乾杯。 

今度の日曜日、さんずいのはじまり (2009/11/03)

今日は、嵐のような風吹く中、六甲山を縦断し、神戸大学へ行ってきました。宝塚から六甲山へあがっていくと、稜線を縦断しながら、大阪方面、三田方面、神戸方面と異なる方向の景色が見えます。今日は、寒冷前線が通過したのか、強風が吹いたり、急に晴れ間がのぞいたりする中、標高900メートルからの眺めは最高でした。 

神戸大学でのイベントも無事終了しました。ジャワ舞踊から出発して、現在いろんな活動をしているんだけど、それらがつながっているということをおしゃべりしました。映像を見たり、昆布になったりもしました。打ち上げは、2号線沿いの刀削麺の店でした。包丁で麺を削りながら飛ばしてゆでる行程も見れました。味もなかなか美味でした。神戸大学のみなさん、ありがとうございました。 

さて、音楽とダンスの境界を往復する作品「SANZUI」の試みがスタートしています。15年以上に演奏したことのあるジョン・ケージのガムラン作品「HAI KAI」を、からだの感覚をフルに使って、再解釈して演奏します。その他にも、音楽とからだを問い直す作品を取り上げました。 

秋のスペース天は、山里の景色も見事です。ピクニックがてら、ぜひお越し下さい。

今日は神戸大学で (2009/11/02)

今日は、神戸大学で下記のような催しです。 
神戸大学にいくのは、大学生のとき以来かな・・・。紅葉を見がてら、我が家から六甲山経由で行ってみようかな? 

何の映像を見ようか、今考え中です。 

当日参加もOKですので、時間ある方はぜひ! 

・・・ ・・・ 

神戸大学の沼田里衣さんたちが企画しているシリーズ。ジャワ舞踊と「ピクニック」やたんぽぽの家の伊藤愛子さんとの即興ダンスとが、どんな具合につながっているのかをお話ししたり、映像を見たり、みんなでからだを動かしたりしようと考えています。 

[現代GP]コミュニティーアートセミナー Vol.10 
共振するからだ 

日時:11月2日(月)17:30~19:30 
参加:無料 申し込み不要 学外の方もどうぞ 
会場:神戸大学 発達科学部音楽棟 C1 11 
   阪急「御影」駅、JR「六甲道」、阪急「六甲」より 神戸市バス36系統鶴甲団地行、「神大発達科学部前」 
講師:佐久間新 
主催:文部科学省・現代GP「アートマネージメント教育による都市文化再生による都市文化再生」プロジェクト 
問合せ:神戸大学大学院国際文化研究科 異文化交流センター 078-803-7650 (平日13-17時) 

詳しくはウェブで、 
http://web.cla.kobe-u.ac.jp/artmg/?%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%8B%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%88%E3%82%BB%E3%83%9F%E3%83%8A%E3%83%BC/20091102

プジョクスマン舞踊団来日 (2009/10/26)

ヨーロッパの日記の続きもまだだし、大阪ピクニックのことも、からだトークのこともまだ書いていない。その後、1週間東京遠征に行ってきたので、そのことをまず書こう。ますます順番が錯綜してきています。すみません。 

10月18日 
6時30分に、豊能町の我が家を出発。京都東まで地道で走り、名神に乗る。初のETCレーン通過。前日に取り付けたのだ。途中、富士山がきれいに見えるSAなどで休憩しながら、昼頃東名から首都高へ入る。勘を働かせて、皇居の北のあたりで高速をおり、神田にあるカルティカのスタジオを目指す。すこし迷ったが、予定時刻の13時に、須田町交差点に無事到着。万惣という落語に出てくるくらい古い果物屋のビルの地下にスタジオがあった。中へ入っていくと、ジョグジャの舞踊団の懐かしい面々に再会。もちろん田村史さんやサプトノ先生もいる。みんなも福岡から午前中に飛行機でやってきたのでややつかれた様子。乗って来た車を駐車場へ入れる。親切なおじさんがいて、出し入れ自由で1日2000円にしてくれた。5泊させるので大助かりだ。コインパーキングだとこうはいかない。14時過ぎから、練習開始。 

今回のコンサートは、ジョグジャのマルドウォ・ブドヨ舞踊団(通称プジョクスマン舞踊団)と東京のガムラングループ、カルティカ&クスモとの合同公演なのだ。僕たちは、大阪から助っ人として、衣装や小道具も持参して駆けつけた。僕は、ジャワへ留学中、この舞踊団で習い、ある程度踊れるようになってからは、メンバーとして舞台に立たせてもらっていたのだ。今でも、ジャワへ行けば、舞台に立たせてくれる。2006年に起こった中部ジャワ地震の時には、建物に大きな被害を受けた。そこからなんとか建物も活動も回復した。今回の来日公演はその節目という意味合いもある。あたらしい若い世代のステップアップとしての公演。 

練習は21時頃まで続き、みんなバテバテペコペコになって、神田駅近くの中華料理屋で遅い夕食。そして、ホテルへチェックイン。オリンピック・イン・神田、なかなか広い部屋で快適。 

10月19日 
午前中、プジョクスマンのメンバー4人とサプトノ先生、ブナ、そして僕とで、中目黒にあるインドネシア大使館へ。教育文化部にいる疋田さんと久々に再会した。インドネシアへ留学したことのある人はみんなお世話になっている方だ。何度か手紙でやり取りしていたが、会ったのは本当に久しぶりだった。担当官にも挨拶をして大使館を後に。神田へ戻って、昼ご飯をテイクアウトして、ホテルへ。イウィンさんはやや風邪気味。 


夕方よりスタジオで練習。今回、僕は舞踊劇で二つの役をすることになっていた。ラマヤナ物語のジャタユ(ガルーダ)という神の鳥役とアルジュノ饗宴でのママン・ムルコ役(イノシシの化身)。どちらも動物系の荒型の役。普段、アルスという洗練された人間の振りをする僕にとっては、なかなかチャレンジングな配役だった。また、舞踊劇というのは、単独の踊りとは違って、複数のダンサーが舞台上にいるので、音楽が必ずしも自分のために演奏されているとも限らず、自由自在な即興能力が必要とされるのだ。一つ一つの舞踊を深めていくのとは、ちょっと別の能力が要求される。こういう臨機応変な能力は、その文化の中で育った来たジャワ人の得意とするところだ。留学中の僕は、なかなかこの臨機応変能力を身につけるのに、苦労した。この日の練習で、僕は、自分の出番のきっかけ、殺陣の順番などを覚えるのに必死だった。物覚えはあまりよくないのだ。 

10月20日 
ジャワからやってきたプジョクスマン舞踊団のメンバーは10人。団長のスティアさん、スマルヨノさん(ISIジョグジャの舞踊科の先生)、スプリヤントさん(ISIソロの舞踊科の先生)、スワントロさん(SMKIジョグジャの舞踊科の先生)、アリンさん(スティアさんの息子、ISIジョグジャの卒業生)、ドゥウィさん(ISIジョグジャの学生)、プトゥリアさん(ISIジョグジャの卒業生の舞踊家)、プトリさん(教育大学舞踊科の学生)、シトさん(事務職兼舞踊家)、カシラさん(花形の歌手)といったメンバー。男性5人女性5人。プトリさんとシトさんを除いては、みんま前からよく知っているメンバーだ。この日の昼食は、ちょっとリッチにすき焼き定食を食べた。ご飯のお代わりが自由だったので、スワントロさん、ドゥウィさん、スマルヨノさんは3杯もご飯を食べた。ジャワ人は、白ご飯が大好きなのだ。 


昼から、僕は鳥とイノシシの個人練習。まだまだ振りがしっくり来ていない。夕方より全体練習。練習後、楽器の梱包、衣装の梱包。その後、スタジオ横の閉まりかけていた定食屋の大将に無理を言って、13人分の豚生姜焼きと鶏の照り焼き定食を作ってもらう。ジャワ人なのに豚?スワントロさんはクリスチャンだし、スマルヨノさんは肉だったら何でも大好きなのだ。調理中に、ブティア(スティアさんへの敬称)のリクエストで、野菜の煮物を別の居酒屋へ探しに行く。親切な店があり、人参、ごぼう、コイモ、インゲン、大根をパックにきっちりと詰めてくれた。定食屋へ大急ぎで戻り、大急ぎで食べた。ここもご飯とみそ汁がお代わり自由だった。スタジオへ戻って、楽器のトラックへの積み込みを手伝う。カルティカのメンバーは、晩ご飯を食べずにがんばっている。 

手違いで、4トントラックでなく2トントラックが来たので、翌朝も積み込みの続きをすることに。 

10月21日 
90年代前半にジャワに滞在し、プジョクスマン舞踊団の創設者であるロモサス(サスミントさんの敬称)から舞踊を習っていたKさんの家へ行くことになっていた。ロモサスは、僕が留学中の96年に亡くなった。それ以後は、ブティアが実質的な代表者としてがんばっている。Kさんは、その後アメリカへ留学し、今は東京の大学で先生をしている。しかし、舞踊はもう踊らないので、舞踊関連のものを譲ってくれるというのだ。練馬区にあるKさんの家へ。とてもいい加減な地図しか持っていなかったが、勘が冴えに冴えまくり、最短距離で下石神井の番地にたどり着き、家から10メートルのところで電話を入れた。プラスチックケース4箱分の衣装や小物をいただいた。 

ダラダラ渋滞する首都高をイライラしながら急いで神田へ戻った。出発時間には、なんとか間に合った。10時30分にホテルを出て、人形町の日本橋公会堂へタクシーで向かった。感じのいい運転手さんだった。今回の東京滞在中、舞踊団一行と行動していると、タクシーでも、レストランでも、「どこからの方ですか?」「公演旅行ですか!」「すごいですね!」と、こちらのことに興味と敬意を持って接してくれる人が多かった。東京は、なんだかんだ言ってもやはり文化レベルが高いのかな・・・。 

楽器を搬入し、衣装の用意を整えた。スリンピ(女性4人)、ラウォン(男性3人)、ゴレッ(女性1人)、舞踊劇2演目、これだけの衣装を配役別に並べるだけでもなかなかの大仕事である。昼食後はリハ。今回のびっくりは、福澤達郎さんの作曲の「時の汀」で、ブティアが踊ることになっていたことだ。彼女は、王宮の舞踊顧問でもあり、バリバリのコンサバである。ジャワでも、新作舞踊公演を見に行くと、眉をひそめて帰ることが多い。おそらく史さんのアイデアだろうが、ブティアが日本人の新作で創作舞踊を踊るのだ。リハでは、すこし戸惑い恥ずかしがりながらという感じだった。 


本番は盛況だった。ガルーダもなんとか務めることができた。もっとも、舞台袖から見ていたブナからは、厳しいダメ出しがあったが・・・。「パパ、最初の飛ぶところが、練習のときより遅かった。後、ドソムコに襲いかかるときは、後ろから行かないとアカンねんで~。」、と。見事な突っ込みである、図星だった。ブティアの舞踊を袖から眺めた。余韻の長い響きが続いた後、胸騒ぎを起こさせるような打ち付けるような音が聞こえ始めると、ブティアの顔がサッと変わった。ドキッとした。ロモサスが現れたようにも見えた。史さんと薄暗がりの中で顔を見合わせた。終演後は、ロビーで来てくださった皆さんと歓談。予想外に、僕の知っている人がたくさんいて、お話しできた。みなさん、ありがとう! 


10月22日 
午前からホールに入って、昨晩の衣装の片付けやら、準備やら。そしてリハ。楽屋で着替えているとクラクラした気分に襲われた。同じようなメンツで同じようなことを、全然違う場所で何度何度もしていた風景が、においが、湿気が、音が、よみがえってくるのだ。 

・・・ ・・・ 

プジョクスマン舞踊団は、ジョグジャの貴族の屋敷内にある。貴族だが、誇り高き貧乏貴族だ。定期公演が夜の8時から2時間、週に3回行われていた。7時を過ぎると雨上がりのプンドポ(壁のないジャワの伝統的な集会所)の奥にある楽屋へ、三々五々舞踊家や演奏家が集まってくる。顔を合わせると、ポーンと丁字タバコをほってよこし、遅れてマッチも飛んでくる。薄暗い裸電球の下、湿ったコンクリートの上にはビニールのござが敷かれ、真ん中にはカネ製のお菓子の丸い入れ物に化粧道具が入っている。4角にかすかに残ったファンデーションをこそげとり、曇った鏡を覗き込む。時には、部屋で博打をするものがいたり、酒臭いままあらわれるものもいた。しかし、いかに客が少なかろうと一旦が舞踊が始まるとみんな真剣だった。舞台には、汗が滴り落ちた。ジョグジャの舞踊とはそんな種類の踊りなのだ。 

終演後は、近所の子供が舞台に上がってきて、残された楽器を弾いたり、猿や鬼や魔物になって踊って遊んでいた。バグス、インドラ、ドゥウィ、アリン、・・・。 

・・・ ・・・ 

15年近くたって、アリンやドゥウィは本物の踊り手になっていた。そして、日本へやってきて、東京の舞台で一緒に踊ろうというのだ。もちろん、15年ぶりに会う訳でなく、彼らが中学生になり、高校生になり、一旦は踊りをやめたり、また戻ってきたりするのも、見ているのだけど、なにか不思議な感慨があった。公演は、この日も盛況だった。名残惜しい人たちと別れて、撤収。楽器をスタジオへ運び終えると、もう12時近かった。 
10月23日 

練習と本番の間、まったく騒がずじっと見ていたブナのリクエストで、東京タワーへ。ホテルへ戻り、最後の昼ご飯を、みんなで食べる。そして、さようなら。プジョクスマンの一行は、東京芸大でのワークショップなど、まだ予定が少し残っている。僕たちは、狛江市に住む中村のびるさんの家へ泊ることになっていた。大阪へ戻る前に、最後の関所でちょっと一休み、って言う感じ。2階には、ワヤンのクリル(上演用の幕)があり、その横で3人で眠った。 

10月23日 
中央道~名神で豊能町の家へ戻ると18時だった。19時からは、阪大でリハがあった。翌日に行われる日本音楽学会主催のコンサートのリハ。三輪眞弘作曲「愛の讃歌」で踊ることになっていたのだ。さすがにちょっと疲れた。 

で、24日のコンサート本番へいたる訳なんですが、この日記はここまでにしておきます。

I-Picnicヨーロッパツアー9月16、17日 リラと再会 (2009/10/09)

9月16日 17日 
9時31分関空着。すぐにフィンエアーでチェックイン。 

関空発ヘルシンキ行き。座席は32A、隣は大手旅行会社の添乗員の女性。ドイツとオーストリアへのツアーガイドだと言う。シルバーウィーク前で旅行客が多く、満席だ。チキンのバジル風味、赤ワインを飲む。モニター画面でSHANGHAIというゲームをする。中級コースはうまく出来るようになるが、上級コースは難しい。ちょっと理不尽に難しい。まだまだ時間があるので、「April Bride」という余命1ヶ月の乳がんの女性が主人公の映画を見る。邦画はこれしかない。洋画もろくなものがない。主人公が亡くなりそうになった辺りで、「当機はまもなく高度を下げはじめ・・・、」とアナウンスが入る。お~、いいところなのに~、映画がストップしてしまった。映画とはいえ、人の死に立ち会ったので、なんだか厳粛な気分になる。主人公の女の子は、なかなかいい演技をしていた。
イミグレーションは簡単に通過。トランジットへ。 
18時30分、ウィーン空港着。CAT(市内行き電車)の駅へ。18時47分発。プラットホームの自販機で切符を買う。10ユーロ。ものすごいヘビーデューティーな電車がやってきた。市内どころか、モスクワまで走っていけそうだ。2階席に乗り込む。検札有り。ウィーンミッテ駅で、地下鉄U4に乗り換える。1、8ユーロ。終点のハイリゲンシュタットで下車。ターミナルで39Aのバスを待つが分かりにくい。なんとか乗り込む。チケットは地下鉄と共通。地図とにらめっこしながら、車外に目をこらし、トラムの線路を発見。これを目印に、ホテルの看板を見つけたので、下車。ウィーンに留学していた筒井はる香さんが紹介してくれたカイザー・フランツ・ヨゼフホテル、なかなか豪華なホテル。チェックインすると、W野村さんと藪ちゃんからのメッセージ。近くでご飯を食べているとのこと。出かけるが、道で出会う。おなかも機内食ばかり食べて、あんまり減っていなかったので、部屋に集まってビールを飲むことに。まずは、無地到着して、再会出来た。 

翌朝は8時に出発するので、22時頃お開き。幸弘さんと同室。今回の旅は、ずっとダブルベッドで寝ることになるのだった。シャワーを浴びて寝るが、2時頃目覚める。なかなか寝付けないが、朝までゴロゴロする。6時から1時間、ストレッチ。みんなが買ってくれた朝食を食べて、8時過ぎにタクシーで出発。8時25分頃、ウエスト・バンホフ駅到着、15ユーロ。大きいがちょっと寂れている。ブダペスト行きをはじめ、国際線列車がいっぱい停まっている。チケットを購入。一人片道35ユーロ。6人掛けのコンパートメントになった車両に乗り込む。結構古い車両。9時過ぎに出発。オーストリア内とハンガリー内で2度検札があるが、パスポートのチェックはなし。4人の両親や家族のことをお互いに話す。僕の父の行動療法のことが話題に。自閉症児をくすぐるっていう療法だ、
たぶん。今回のツアーで、行動療法は頻繁に使われた。みんなでくすぐり合うだけだが、なんだか盛り上がる。父は心理学の先生なのだ。 

ポプラ、楕円形の葉っぱの木、豆がぶら下がった木などが点々としている。黄色から緑までの色が曇り空の下に茫洋と続く。なんだか懐かしい気がする。1968年12月18日の昼過ぎに僕を生んだ母は、大阪市東淀川区にある淀川キリスト教会病院の窓から、青空をバックにしたポプラの木を見ていたそうだ。 

幸弘さんの携帯電話を借りて、ブダペストのリラに電話する。ジャワ留学中に知り合った友人。97年以来だから、12年振りにしゃべった。英語で手短に到着時間を知らせた。13時過ぎ、鉄骨の大きなアーチが広がったブダペスト・ケレティ(東)駅のたくさん並んだホームの端っこに電車が滑り込んだ。終着駅だった。服やおもちゃを売る露店が並んでいた。ジャワのような風景だと思った。リラと久々の再会。髪が少しショートになり、しわが少し増えたけどチャーミングな笑顔だった。目の色が薄くなったような気がした。インドネシア語でしゃべった。 

リラがチャーターした車で、友人の友人のフラットへ。駅から20分くらいのペスト地区にあった。古いアパートの1階には鉄格子がついたエレベーターがあり、3階へ上った。ドアを開けると中は広い部屋がたくさんあり、同居人が半分を使っているようで、残りの半分使っている友人が旅行中だったので僕たちに貸してくれたのだ。中はなかなかおしゃれになっていて、僕と幸弘さんがリビングの1段高くなったところにあるマットレスに、誠さんと藪ちゃんは2段ベッドがある奥の部屋を使うことになった。12月に籍を入れることになっている二人には、旅行の間中、ずいぶんと仲のいいところを見せつけられた。そういえば、ブダペストへの電車の中で、幸弘さんが読んでいる本の話をしてくれた。「アベリールとエロイーズ」。天才的な哲学者と聡明で早熟な少女との恋愛に関する書簡集。二人のことが頭にあって、自宅の本棚にあったのを持ってきたそうだ。 


アパートの下のミニマーケットでサンドウィッチを買う。冷蔵ケースにあるハムとチーズを選んでパンに挟んでもらう。リラがおごってくれた。車の中で、リラが鞄の中から生のパプリカと唐辛子を出して、サンドウィッチと一緒に食べた。なんとなくハンガリーでの旅がうまくいく予感がした。リラはよく気がきくのだ。リラの友人でやっぱりインドネシアへ留学していたアトムが合流した。リラの提案で、スロバキアとの国境に近いドナウ川が大きくカーブしているヴィシェグラードの辺りへ行くことになった。ブダペストから1時間ちょっとで到着。少し丘を上ったところにロッジがあり、テーブルがたくさんある半屋外で、小学生たちが凧を作っていた。ちょっと遠くまで、ピクニックに来ている感じだった。I-Picnicは、世界中の気持ちのよいところへ行って、即興をするグループなので、ハンガリーの田舎へ行ってみたいとリラにリクエストしていたのだ。 

凧を作っている小学生に少しずつちょっかいを出し、うまく踊りに引き込んだ。先生たちも楽しんでみている。そのうち、子どもたちが馬小屋に方へ走り出した。何十頭もいた。ヤギ、猫、犬もいっぱいいた。子どもたちと踊ったり、何度もかけっこをした。小学生と別れた後、ドナウの河畔へ移動した。砂地が広がっていて、釣り人が糸を垂れている。水は深い色合いで少しヌメッとした感じで揺らいでいる。とても静かで心が落ち着いていく。藪ちゃんが砂地に絵を描き、僕は誠さんの鍵ハモに少し絡んだりしながら、水際をすべるようにゆっくりと歩いた。川がすべてだった。幸弘さんが撮影をした。映像が楽しみだ。湖畔のレストランで夕食。僕は川魚のスープを頼んだ。 

ブダペストのフラットへ戻った。インドネシアに留学していたベジと奥さんのバーバラがやってきた。豚のインドネシア風カレーを作ってくれた。貴腐ワインで有名なトカイ産のワインと自家製のチェリーのシュナップスも持ってく来てくれた。ワインは開けずに、コーラのペットボトルに入ったシュナップスをみんなで飲んだが、これが抜群にうまかった。アトムがウクレレを弾き、夜更けまで盛り上がった。

大阪ピクニック02「坂」 (2009/10/08)

ジャワ舞踊をする中で、大切だと思うことがいくつかあります。 
重力 揺れ 波  
脱力 緊張 
音楽 ダンス 美術 文学などの混じり合い 
意図と偶然 生活と芸術 自然と人為などの混じり合い  
などなど。 

そんな思いからいろんな活動をしています。「桃太郎」、「さあ、トーマス!」、「I-Picnic」、「愛の賛歌」、「SANZUI」などなど。そして、今年始めたのが「大阪ピクニック」。からだを使って街を感じる試み。からだを使って街をスケッチする試み。5感をフル回転させて、街へピクニックに行きましょう! 

第1回目は船場アートカフェ主催で、大阪の上町から谷町を、第2回目は、東京の根津~谷中~日暮里をピクニックしました。そして今回は船場アートカフェ主催で、天王寺~帝塚山を、ピクニックします。 

作戦会議、ピクニック、映像分析の3回シリーズです。明日は、第1日目の作戦会議の日です。1日だけの参加でも結構ですので、気楽に参加してください。無料です。 

・・・ ・・・ 
大阪ピクニック通信 vol.7 

台風一過、山の木々が散髪したようにさっぱりしました。 

この通信のvol.6でお伝えしましたが、船場アートカフェ主催の「大阪ピクニック02」の開催がせまってきました。 
船場アートカフェのウェブに詳しい情報が載っていますので、ご覧ください。 
http://art-cafe.ur-plaza.osaka-cu.ac.jp/ 

明日は、本番のピクニックに向けて、作戦会議をしたいと思っています。 
・ルートの確認 
・どんな方法で街を味わうかの確認(前回までのピクニックを参考に、ピクニックのしおり作り) 
・からだをほぐすワーク(ペットボトルを使ったりなど) 

SENBA ART CAFE 
大阪ピクニック02「坂」ワークショップ 
日時:第1日10月9日(金)午後6時30分~午後9時30分 
   からだのワークショップ、作戦会議など 
   第2日10月12日(月・祝)午後1時~午後5時 
   天王寺から帝塚山にかけてピクニック  
   第3日10月16日(金)午後6時30分~午後9時30分 
   映像を見たり、坂や表現についてディスカッションしたり 
定員:各回10名(事前申込制・無料。3回とも参加出来る方優先) 
ナビゲーター:佐久間新(カミス) 
ゲスト:本間直樹(船場カフェ・ディレクター/大阪大学CSCD)、小島剛(大阪アーツアポリア) 
大阪ピクニック:岡部太郎、M、高岡伸一 
主催:船場アートカフェ(大阪市立大学都市研究プラザ) 
申込み方法:E-mail若しくはFAXにてお申し込みください。追って詳しいご案内をお知らせします。お申し込みは先着順受付。定員になり次第締め切りとさせていただきます。 
FAX:06-4306-4900 E-mail: art-cafe@ur-plaza.osaka-cu.ac.jp(船場アートカフェ事務局:高岡宛) 

参加される方は、当日までに佐久間宛にメールをいただいても結構です。 
船場アートカフェが地下にあり、携帯電話の電波が入りにくいです。事前に到着時間をお知らせいただければ、迎えに上がります。よろしくお願いします。 

また、ひとりでピクニックしてきたよ、という方がいれば、ご報告をお持ちしています。写真、映像、文字なんでもOKです。 

SANZUI 中之島、そしてたんぽぽ (2009/10/05)

日記に書きたいことが山のようにたまっていく。順番に書きたいのはヤマヤマだけど、どんどんたまっていくので、少しずつ書いてみよう。時間が前後してややこしくなっていきそうだが・・・。 

前回は、ヨーロッパへ出発する前で終わっている。ものすごく簡単に書くと、それから出発して、オーストリア~ハンガリー~オーストリア~フィンランドへの旅をした。最後は、ウィーンからの飛行機がキャンセルになって、ヘルシンキ泊になり、翌日少しヘルシンキを散策し、9月30日9時前に帰国した。すると、10時過ぎにインドネシアから芸術大学の一行6人が来日して、その人たちと合流し、それから共同生活がはじまり、10月3日は中之島公会堂で、4日はたんぽぽの家で公演し、今に至っている。 

この日々のことは、なんとか追々書いていこう。 

さて、昨日と今日の公演のこと。特に「SANZUI」のこと。 
「SANZUI」とは、 
音楽とダンス 演奏することと踊ること 音楽とそうでないもの ダンスとそうでないもの 意図と偶然と表現  
などの境界を、僕がジャワ舞踊をやりながら気づいた重要なこと「風に吹かれる木になってみる」「波に揺れるコンブになってみる」、ということをヒントに編み出した「振り子奏法」や楽器本来が持つ最高の音を引き出すための「振り子バチ奏法」及び「落下奏法」とダンスで構成された作品。タイトルは、ジャワ舞踊の重要なキーワード「BANYU MILI(水が流れる)」からイメージを広げ、さんずい編を持ついろんな漢字を、音や動きを深めるヒントにしていることに由来している。 

10月3日の中之島公会堂、今は中央公会堂っていうのかな?、で初演を行なった。プログラムには、世界初演!となっている。事実である。中之島国際音楽祭の1演目だ。公会堂の一番てっぺんにあって、ステンドグラスの天窓から柔らかな光が漏れる壮麗なホールに満杯の400人のお客さんだった。ジャワの古典曲と宮廷舞踊「スリンピ」が、ホールの空気を重厚かつしっとりとさせていた。 

中之島での「SANZUI」で、僕は、なにかうまく回らない中でもがき苦しんだ。 
会場に、散らばる楽器以外の微妙な音、遠くでバタンとしまるドアが、僕の心を波立たせた。400人の観客の戸惑う視線、あるいはそれを勝手に心配する自分の心。集中しなければと思えば思うほど乱れる心。即興で踊りたいのに、自分で決めてしまっているいくつかの動きが手かせ足かせになること。そんな中でも、なんとか立ち向かっていこうとする自分。自分の持っているイメージからずれていくことに対する不安。そんなものがないまぜになっていた。 

本番が終わって少しして楽屋へ戻ると、重たい何かがのしかかってきて、からだが床にめり込んでいった。 

前日のリハもずいぶん苦労したが、最後の最後に、静まり返ったホールの中で、「これだ!」といういい感じがつかめた。楽器の音、演奏者の衣擦れ、床のきしみなどひとつひとつの音がクリアーに聞こえ、その音が自分のからだにわずかなズレを作り出し、そこからうまく揺れを作り出し、その揺れを少しずつ広げていくと、その波がまた音にフィードバックされていき、その音がまた動きにフィードバックする、そんな感じ。 

そのよかったイメージと本番との差異が、僕を苦しめたのかもしれない。楽器の音以外も音楽だと言いながら、会場に散らばる音を受け入れることが出来なかった自分の気持ちの持ちようも良くなかったのだろう。400人のおそらくマルガサリのことをよく知らないであろう観客のことを意識しすぎたこと、演目の前のおしゃべりで、もっとリラックスしていい空気を作れなかったこと、そんなことも良くなかっただろう。公演が終わってから、反省が後から後から湧いてきた。そういったことが出来ていない姿を、大勢の人の前に晒してしまったということが、重みとなってからだを床にめり込ませていく。 

しかし、即興とはそういうことなのだ。そんなうまく行かないスリリングこそが即興なのだ。僕は、そのうまく行かないことのスリリングを味わってでも、即興にこだわっていきたいのだ、そう思えるようになって、なんとか立ち上がることが出来た。 

10月4日。たんぽぽの家で、「SANZUI」の再演を行なった。ここは、月に2度訪れているし、観客は見知っている顔も多く、すごくあたたかい。今日は、その場にあるすべての音や動きを受け入れようと思うことが出来た。とにかくリラックスして、感じて動こうと決めた。うまく音とからだが流れはじめた。途中で、障碍のあるアーティストである山野さんが客席から飛び出てきて踊り出した。僕は、「沫」や「瀑」になって、山野クンとぶつかり合った。途中からは、インドネシア芸術大学のスニョト先生とダンスを交代して、僕は楽器に入った。最後は、スニョトさんが床に転がって、僕とくんずほぐれつになった。波にもまれたコンブになっての大団円だった。 

全身にのしかかった重みがずいぶんと軽くなった。明日は、大阪市立大学で夕方からコンサートだ。

赤と白の国へ行ってきます。 (2009/09/15)

明日の朝、11時発フィンランド航空で出発です。ヘルシンキ経由でウィーンへ向かいます。

2年前に続いて、ウィーンからドナウ川に沿って80キロにあるクレムスで行なわれる音楽祭に参加します。 
http://www.klangraum.at/programm/kontraste/programmuebersicht 

世界中から、変わったミュージシャンが集まるので、有名なフェスティバルです。元ベルベット・アンダーグラウンドのルー・リードも参加するようです。 

明日の晩、ウィーンのホテルで、野村誠さん、野村幸弘さん、薮久美子さんと合流します。17日は、電車に乗ってブダペストへ行きます。18日は、ジョグジャ留学時代に知り合ったハンガリーの友人とハンガリーの田舎へピクニックへ行く予定。それから、ウィーンに戻ってワークショップをして、21日からいよいよクレムスです。クレムスでは1週間市民とワークショップをして、27日に古い教会を改造したホールでコンサートをします。 

昨日来たブダペストのリラからのメールによると、 
Weather is fine now, sunshine, no rain, temperature is 20 - 25 c, beautiful autum weather. 
No need to bring anything, just looking forward to meeting you and be together again! 
ということです。ハンガリーは赤ワイン、クレムスは白ワインで有名です。新酒の季節です。

収穫のダンス (2009/09/12)

我が家の正面に見える古民家。気になっていたので、行ってみた。           
オクラの花と実。おいしいですよ。                         
シラサギが緑に映えます。                            
ジャワ留学から一時帰国中の大石麻未ちゃん。                   
飲んべえの言い訳。                               
これがその家。                                 
窓から我が家が、                                
よく見える。                                    
こっちからは、こう見えるのか・・・。
                                                   
                                       
リスがすみかにしている樹齢300年の樹と月。                   
Kさんからなんきんをゲット。                           
見下ろせば、                                   
コスモスが踊っている。                              
さあ、帰ろう。                                  
隣のデブリンちゃん。                               
保育所へ、ブナを迎えにいくと、ウロコ雲だった。  

もうひとつの水都大阪 (2009/08/31)

 今日は8月最後の日。拍子抜けした夏が行き過ぎて、天は高くなり、もはや涼しい風が稲穂をカサカサならしています。 8月20日 毎月第1第3木曜日は、奈良のたんぽぽの家でWS。この日は、中川真さんが「中川真式ワークショップ」をしたいと言うので、僕は参加者になった。上田假奈代さんが書いた「水と女たちと5色の糸よ」を朗読し、それを聞いて感じたままに演奏してみる、というのをまずやった。 たんぽぽWSに参加している小松泰子さんが朗読し、森下静香さんがボナン(ガムランの楽器)に入った。 さいしょは 風を連れてくる あの雲のむこうの山の連なる 幾千の谷と 幾千の川を越えて 生まれてくる風を そして 一千行の滑走路を越えて さんざめく色とりどりの旗をゆらし ことばをたずさえて 女たちがやってくる (中略) 目をとじていなさい おだやかにいなさい 呼吸の音をきいていなさい いのちのじかんを いのちのことばを 風がはこんできます これでおしまい。 小松さんの声が心地よく響いていく。それに合わせて森下さんのボナンがつぶやくように応答する。ただ鳴らしているんだけど、一音一音に表情がある。 朗読する人を代えながら、何周かやってみた。たんぽぽWSに参加してるメンバーは、何の気負いもなく、即興演奏をした。真さんがすこし驚いていた。僕は、なんだかうれしくなった。たんぽぽの家でワークショップをはじめて3年。毎回、寝返りをしたり、ペットボトルで波を作ったり、外に出て木になってみたり、坂を転がってみたり、へんてこなことばかりしていた。が、それがじんわりとみんなの中に染み込んでいるんだなあ、と感じてじんわりとうれしくなった。 8月21日 神戸のサンチカでインドネシアの観光促進イベント。イウィンさんが踊ることに、僕はマネージャー。もう一人のバリ人舞踊家と一日中サンチカ。このイベントは23日まで続く。 8月22日 朝からサンチカヘ。午後からは、こりあんコミュニティ研究会が主催するイベントへ。  <主催者のメッセージ> 桜ノ宮の「龍王宮(りゅうおうきゅう)」をご存知ですか? JR環状線桜ノ宮駅の大阪寄りホームの下、大川(旧淀川)の河川敷(毛馬桜の宮公園内)にあります。大阪に暮らす済州島(チェヂュド)出身者の女性たちの祈りの場として長く営まれてきました。そこが「不法占拠」を理由に近々立ち退きになります。  大阪市在住の作家の元秀一(ウォンスイル)さんは小説『猪飼野物語』(草風館)の中で「龍王宮」を登場させ、大阪市出身の梁石日(ヤンソギル)さんは『魂の流れゆく果て』(光文社文庫)の中で、若い頃、オモニのお供で龍王宮へ行ったことを書かれています。  大阪府と大阪市は夏から秋にかけて「水都大阪2009」という一連の企画をしています。しかし、そこには、故郷の済州島につながる水辺で大阪の文化をともに育んできた「龍王宮」のことはまったく抜け落ちています(ちなみに、今年6月に「大阪なるほど再発見!なにわなんでも大阪検定」が始まりました。橋爪紳也編『大阪の教科書?大阪検定公式テキスト?』を見ても、大阪をつくるのに大いに貢献した古代の朝鮮からの渡来人や近現代の朝鮮人についての言及はほとんどありません)。  そこで私たちは2010年の「韓国併合」100周年を前に、【龍王宮プロジェクト?もうひとつの「水都大阪2009」】として、「龍王宮」のことを知って、みんなに伝えていきたいと思います。今後、調査・研究・記録などの活動も予定しています。 この中の【龍王宮祝祭?もうひとつの「水都大阪2009」】に出演した。 僕自身、異国の王宮の舞踊をやっている。龍王宮は、訳あって異国にすむ済州島の人が河原に作ったカミサマと交信する場。そこでどんな舞が続けられてきたのか・・・。 そんな空気を少しでも感じられないかと思いながら、木に登ったり、水しぶきを空高くまき上げたり、地面に転げ回ったりしながら踊った。最後は、観客も巻き込んでの大団円になった。 出演者:中川真、西真奈美、川上春香、M(以上ジャワガムラン)、小林江美(バリガムラン)、岩澤孝子(タイ舞踊)、小林加奈(タマ トーキングドラム)、伊藤悟(中国少数民族の笛)、ティティポル(タイの弦楽器)、マイケル・サカモト(舞踏)、張+朴実(韓国打楽器) 打ち上げは、天満のホルモン系焼き肉の「岩崎塾」。店に入ると机にカンテキがのっかっていて、煙がモウモウ立ちこめている。朝鮮半島出身の人、大阪で生まれた半島の血を引く人なんだけど半島の言葉をうまくしゃべれない人、しゃべれる人、奥さんが日本人のタイの人、ロサンゼルスで生まれた日本の血を引く人で日本語がしゃべれないんだけどなぜか舞踏をしている人、日本で生まれた日本人なのになぜかジャワやバリやタイや中国やセネガルの音楽やダンスをしている人、みんながモウモウとたちこめる煙の中で飲んで食べて歌って踊った。 このイベントは、もうひとつの「水都大阪2009」。僕は、いわゆる「水都大阪2009」にも、出演することになっている。 大川を、龍王宮からもう少し下っていくと川が二股に分かれる。そこが中之島。もう始まっていて連日たくさんのWSが行われている。9月4、5日の二日間に渡って、ガムランとワヤン(影絵芝居)のワークショップをする。案内人は、中川真、ロフィット・イブラヒム、佐久間新。 詳しくは下記のサイトで。 http://www.suito-osaka2009.jp/ 水辺の文化座ウェブサイト上の予約フォーム。 http://www.bunkaza.suito-osaka2009.jp/artist/form104.html

映像 Gempa 宮本博史個展 (2009/08/09)

映像 Gempaほか 宮本博史個展 まずは、8月1日に神戸のClubQ2でのイベントの様子が、YOMIURI ONLINEで見られます。 http://osaka.yomiuri.co.jp/movie/topics/mv90807c.htm 僕の登場は一瞬ですが、なかなかコンパクトにまとめられていて、Gempaの様子も分かります。 ここから日記です。 今日8月9日は日曜日なので、本町のインドネシアレストランCITA-CITAで、インドネシア語のレッスン。夏休みで、インドネシアへ行っている人がいたりで、早くレッスンが終わった。ちょうど、連絡をもらっていた宮本博史さんの個展期間中だったので、見に行った。自宅を公開しての個展。マンションの一室である宮本家に入ると、宮本さんとお父さんがテレビを見てくつろいでいた。なんだか変な感じだが、すぐ打ち解けた。家族の様々な記録が並べられている。 特攻隊で命拾いしたおじいさんの義眼があり、触ってみるとつるんとしていた。お父さんによると、毎食後目から出して、茶碗に注いだお茶で洗っていたそうだ。1958年に書かれたお父さんの日記は、細かな字で最後のページまで書かれていた。戦死した腹違いの弟さんのアルバムには、不思議な字体のキャプションがついていた。お母さんがお父さんへ宛てたラブレターは、かわいい便せんに書かれ、とても素敵だった。そして様々な年代の映像が流れている。 気がつけば、お母さんもやってきていた。僕の背後の食卓では、映像の中に映っている人たちが、年を重ねた姿をして団らんしていた。 人間が生きていく営みのはかなさやいとおしさ、人の縁や運命の不可思議さ感じた。なんだか心が揺さぶられた。 展覧会は明日までです。 以下は、宮本さんからのメールの引用です。 ・・・ ・・・ お久しぶりです、宮本博史です。 お元気にされていますか? (以下、展覧会 情報です。) 『そこでなくて ここなのだろう』 会場は、亡くなった 祖父母が住んでいた部屋で、現在は 父が使っている所です。 そこに、私たち家族の 半世紀ほどの記録物を展示します。 その内容は、現自宅と同じ所の 50年前の8mmフィルムや、1958年の父の日記、結婚前に 母が父に送った手紙、私が産まれた際の8mmフィルム、祖母の火葬許可書 など、、 ある一家族の営みから 生まれたものたちです。 もし よろしければ、父と私が 常駐していますので、展示物に関する 思い出話などもいたします。 日時:7月30日(木)?8月10日(月) 13:00?20:00(無休) 会場:〒545-0005 大阪府大阪市阿倍野区三明町2-7-23-502(地図は こちらへ→ http://sumibiraki.blogspot.com/2009/07/d1730-810.html) 詳しくは こちらへ→ http://sumibiraki.blogspot.com/2009/07/d1730-810.html ?住み開きアートプロジェクトとは?? 大阪を中心に全国津々浦々の「住み開き」(自宅を代表としたプライベートな生活空間、もしくは個人事務所などを、本来の用途以外のクリエイティブな手法で、セミパブリックなスペースとして開放している活動、もしくはその拠点のこと)事例をネットワーキングするプロジェクトである。2009年7?8月の週末は、一般参加型の現地フィールドワークやパーティー、展覧会や上映会、住み開きシンポジウムなどを開催する。 ・・・  ・・・

Gempa ~Mandi Sama-Sama シェア

8月1日神戸Q2 ”Gempa"(作曲:ラハルジョ)

パリノも参加ジャワの朝


掃除する人


忍び寄る地震


混乱

4日間連続公演 そしてクモの巣のダンス (2009/08/04)

4日間連続公演 そしてクモの巣のダンス 木曜日は、斑鳩ホール。金曜日は、大和高田のさざんかホール。そして、土日は、神戸のQ2で「マンディサマサマ」。4日間連続公演。 土曜日は、セミナーとジャワ島中部地震を契機に生まれたラハルジョさんの作品「Gempa」の上演。「Gempa」の上演は、3回目。バリガムランの小林江美さん、バーンスリーのHIROSさん、それから数名のガムランエイドメンバーもパフォーマンスに加わった。地震を忘れないために行うお祭りのように、いろんな方にこれからも参加して行ってほしいと思う。それが、ラハルジョさんの願いでもある。僕は、地震を引き起こすダンスをした。蛇のようにも見える長い白い布を引きずったり、振り回したりして、暴れ回った。二日目の打ち上げの最後に、ボランティアの学生スタッフの女の子が話しかけてきてくれた。小学生の時に、灘区で地震を体験した時のことをすごく思い出した。蛇のダンスは、怖かったけど、自分の体験と近くて、なぜかうれしかったと。ラハルジョさんによると、今はまだジャワではできないと言う。しかし、いずれは、ジャワでもやることになるだろう。 日曜日は、11時から17時までの長丁場。僕の出番もいろいろあった。11時からのオープニングで、まずは伝統舞踊。Q2はフェリー乗り場なので、海に突き出た埠頭になっている。僕は踊りながら、お客さんの後ろの海が見えるし、お客さんは僕のバックに海が見える。ジャワ舞踊は、波の舞踊。とても気持ちがよかった。後で、見に来ていた美術家の西純一さんに写真をもらった。10年前、スペース天で帰国して初めて踊った時の写真と見比べると、姿勢はほとんど変わらないんだけど、心持ちが変わっているのが、映り込んでいる。ほんとにわずか変化なんだけど、これが10年の変化。 午後からは、美術家の池上純子さんたちとパフォーマンスをした。古い味のある階段。タイルに、手すりに、窓枠に、触ると感じる木目があり、長い時間の記憶が詰まっている。波打ったガラスを通して入る柔らかな光の中で、時間が経過して行った。 続いて、ワークショップ。波のワークショップ、振り子奏法のワークショップ。参加者の方も見事な波を送ってくれて、その波揺らされて、ガムランを叩いた。このシリーズは、どんどん深めて行きたい。最後に、少し湯気のダンスを試みるが、夏場は湯気が見えにくい。寒くなってきたら、またやってみよう。 そして、最後の大混浴。僕は、構成役をまかされていた。すべての出演者、美術家が参加した。ラハルジョさんの「Gempa」(地震)のその後を試みた。少しずつ再生して行くプロセス。しかし、いつしか地震は繰り返される。そして、また再生が始まる。破壊と再生の繰り返し。その再生に、すこしでも新しいなにかを加えていきたい。そんな思いを「シェア」したい、というのが今回のテーマだったのかもしれない。 打ち上げを終えて、家へ戻ると22時過ぎ。東京からやってきていたワヤン協会の中村伸さんが泊まりに来てくれた。では早速と、本をプレゼントしてくれた。すごい本だ。この本に関しては、もう一度改めて書かなければならない。松本亮さんのワヤンの本の新刊と絵本。 ワヤン・ジャワ、語り集成<上>、<下> 翻訳:松本亮 八幡山書房 月刊たくさんのふしぎ 2009年1月号 ノントン・ワヤン! 松本亮:文 橋本とも子:絵 熊谷正:写真 福音館書店 どうも先日の乾千恵さんの「スマントリとスコスロノ」以来、ワヤンづいている。 月曜日。チャーハンの朝ご飯を食べて、散歩へ。ブナも保育所をさぼった。田んぼのあぜ道を通ると、長く伸びた稲から、稲穂が伸びはじめていた。棚田は、日差しの加減か田植えの時期の加減か、段によって育ち具合が微妙に違って、きれいなグラデーションになっている。石垣にカタツムリ、桜に蝉、稲に小さなカエル、溝に沢ガニ、小川にシマ蛇。集落の外れにある岩から水がわき出している泉に到着。大きな自然の岩に囲いを付けて、小さな池ができている。足をつけると、1分も我慢出来ないくらいの冷たさ。汗が一気に引っ込んだ。ブナを後ろから突き落とした。止めろや!と言いながら満面の笑み。3度4度と、今度は自ら飛び込んだ。僕も、一緒に飛び込んだ。目が覚める気持ちよさ。 大きな木の横の急な坂道をあがると祠があった。今まで気づかなかった建物。大きなクモの巣があった。持ち主は引っ越したようだ。三方に渡された糸の張力を確かめる。結構しっかり、張られている。ググッと押して行くと、プツンと切れる。張りつめていたネットはスッと縮まり、風になびく。クモの巣のダンス。これだから散歩はやめられない。

それからのオンさん (2009/07/31)

7月29日水曜日20時に、河原町御池でジャワ舞踊のレッスンを終えると、HIROSさんから着信が入っていた。もしや、と思って電話すると、オンさんがまだ待ち合わせ場所に着いていないと言う。 

オンさんの経路はこう。 
阪急京都線大宮~梅田で乗り換え~阪急神戸線三宮 乗り換え ポートライナー三宮~ポートターミナル駅~上屋Q2 

なかなかのピクニックである。もちろん、梅田は事前に下見をしているし、三宮の乗り換えも経験済み。でも、ちょっと不安。大宮を出たのが、5時30分頃。2時間もあったら、着くはずなんだけど・・・。HIROSさんと久代さんは、ポートターミナル駅で待ちぼうけ。三宮で回らない寿司を食べるはずだったのに。8時30分まで待ってこなかったら、もう家に帰ろう、ってことにした。オンさんなら、なんとしてでもたどり着くだろうと。僕は、京都から家へと車を走らせる。 

9時頃に、オンさんよりHIROSさん宅へ電話あり。ポートターミナル駅に着いたが、誰もいなかったので、埠頭で太鼓の練習をしていた青年を呼び止めて、携帯電話を借りたとのこと。僕が最終手段として、教えていた作戦だ。ポートターミナル駅から、もう一度ポートライナーに乗って、市民病院前駅で降り、ようやくHIROSさんのお宅へ到着。回らない寿司ではなく、ダイエーのパック寿司と焼酎で乾杯になったとのこと。オンさんは、運悪く大宮~梅田も、梅田~三宮も普通電車に乗ってしまったのだ。もちろん、説明はしたのだけど、初めて日本に来た外国人にとっては、字も読めないし、なかなか難しい。僕も、イギリスの電車では苦労したことがある。HIROSさん、久代さん、オンさん、お疲れさまでした。翌日、オンさんはQ2で子どもたちとワークショップ。 

7月30日 
インドネシア障害者芸術団(分かりやすいグループ名だ)が奈良の斑鳩ホールで公演。僕もゲストとして出演。前日に来日し、この日の昼間に、照明、音響、リハを一気に全部やることに。通訳が必要かもしれないと思い、早めに現地入り。11時30分に、西名阪法隆寺インターを降りる。少しいくといかるが牛乳の工場。「♪やっぱり、いっか るっが いかるが牛乳!」思わず歌ってしまう。もう少しいくと、田園に立派なホールが。 

楽屋に入ると、総勢16名のインドネシア人が慌ただしく準備をしている。貫禄のある婦人2名は悠然と腰掛け、恰幅のいいあごひげの男性1名テキパキと指示をだしている。とりあえず挨拶をすませ、様子を見ることに。仙台に指圧の勉強で4年滞在した視覚障害のメンバーが通訳をしている。勉強で滞在しただけあって、日本語はかなりうまい。視覚障害、聴覚障害、車いす、義足、そして障害のないメンバーが自然に互いにフォローしながら、リハを進めて行く。主催しているたんぽぽの家のスタッフとホールのスタッフは、やや振り回され気味で困惑しているが、海外のグループとの仕事なんて、そんなもんだ。どうやら僕の出番はなさそうなので、悠然とした婦人と客席でのんびりと見学した。この婦人、なんとハビビ元大統領の妹さんとのこと。このグループの支援者の代表として、ツアーに参加している。1998年、30年以上続いたスハルト政権の崩壊後、インドネシアの大統領は、ハビビ、ワヒド、メガワティ、そして現職のユドヨノと続く。ワヒドさんは視覚障害者、メガワティさんは女性、インドネシアはなかなか進んだ国なのかもしれない。 

8時30分、公演は無事終了。 
遠方にも関わらず、数名の方が楽屋まで訪ねてきてくれた。ありがとうございます。 
今日は、大和高田のさざんかホールで公演です。無料です。 

インドネシア障害者芸術団来日公演 
The Indonesia Disabled Art & Culture Troupe 

大和高田公演 
日時 2009年7月31日(金)開場18:00 開演18:30 
場所 さざんかホール・小ホール 
主催 財団法人たんぽぽの家 
後援 斑鳩町社会福祉協議会/大和高田市社会福祉協議会/(社)平城遷都1300年記念事業協会/奈良県ビジターズビューロー 

詳しくはウェブで。 
http://popo.or.jp/wataboshi_project/news/cat112/post_7.html

お昼ご飯ですよ! (2009/07/29)

空心菜と牛肉の炒め、ジャワ風野菜スープ、茹でツルムラサキが机の上に並んでいる。僕は食べてしまったけれど、オンさんが散歩に出たまま帰ってこない。蝉が鳴いている。緑になびく稲の先に小さな穂が実り出したにおいを、湿った風が運んでくる。オンさんは帰ってこない。

車で探しに出ると、小川にかかった橋に腰を下ろして、なにやらノートに書き付けていた。車で帰らないかと誘ったが、もう少し・・・、と言うので、傘を渡して帰ってきた。オン・ハリ・ワフユさん、ジョグジャカルタのアーティスト。ジョグジャの郊外の村に住んで、アートでコミュニティの活性化を目指している。また、インドネシアの国民的作家プラムディア・アナンタ・トゥールの本の装丁したり、ジョグジャのストリートチルドレンを扱ったガリン・ヌグロホ監督の「枕の上の葉」ではアートディレクターもつとめている。今回は、ガムラン・エイドのイベントに参加するために来日しているのだ。 

オンさんと、24日は、奈良の東大寺、春日大社、たんぽぽの家へ。27日は、領事館員と心斎橋でブラジル料理、京都で散策。そして昨日は、神戸でアンクルンコンサートを見学。なので、今日は一休み。夕方、オンさんを駅まで送って、僕は舞踊のレッスンをしに京都へ。オンさんは、JRで神戸へ。HIROSさんと合流して、三宮で寿司を食べるらしい。今晩からは、インドの笛バーンスリー奏者のHIROSさんのところへ泊まるのだ。我が家のオンさんが泊まった部屋のクレテック(丁字タバコ)のいい香りはしばらく残るだろう。 

すると、なぜか廃品回収のトラックに乗ったおじさんともに、オンさんが帰ってきた。雨がぱらっと降ってきたのだ。なにかいいタイミングだったので、捨てるタイミングを逃していたテレビを引き取ってもらった。おじさんも喜んでくれた。来年になると、今使っているテレビも捨てないとダメになるんだろうか。日本中で捨てられるテレビは、どこへ向かうのか。そういえば、月曜日に、美術家の友人から、そういうテレビは中国へ引き取られていくんだと言う話を聞いた。循環不可能な物質に頼っている生活。全部を捨て去るのは難しいが、できる範囲でやりたいと思う。 

オンさん!お昼ご飯ですよ。

赤い鳥が逃げた (2009/07/17)

2週間ほど前、すごく天気のいい日に、家の前の坂道で車を洗車した。小桜インコのパリノもカゴから出してやった。車から滴り落ちる水滴で水浴びをした。そこら中を歩き回ったが、逃げていく様子はなかった。 

今日はまずまずの天気だった。鳥カゴの掃除をした。パリノはいつものように窓枠に陣取り、外で飛んでいる鳥と鳴き声を競っていた。窓枠にこぼれたエサを掃除機で吸い取ろうとしたら、驚いたパリノが窓から飛んでいってしまった。 

パタ、パタ、パタパタパタパタパタタタタタッ 

15メートルほど先の桜の木にとまった。ヒナの時に羽を切っていたが、ちょっと生えそろってきたのか、思ったより遠くまで飛んでいった。スゴイ、スゴイ・・・。感心してる場合ではない。一大事。あわてて、ゾウリをつっかけて、桜の木に登った。しかし、よく分からない。もう一度2階の部屋へ登り、同じ高さから目を凝らすと、枝の先の方が揺れていた。桜の葉と羽の色が一緒だが、頭が朱色できれいに浮かび上がっている。 

洗濯干しの長い棒を持って、再び桜に登った。パリノちゃん、いらっしゃい、と棒を近づけたら、 

パタパタパタパタパタタタタタタタ 

今度は、さっきよりずっと上手に飛んでいってしまった。土手の下にある栗の木の方だ。桜から飛び降りて、ゾウリで走ったが、追いつかない。また見失ってしまった。しばらく探すが見つからない。パリノ~、パリパリ~、と叫んでいると、栗の木のある家の奥さんが出てきた。すみません、お騒がせして・・・。と説明していると、パリリリリッ、と鳴き声が聞こえた。

Kさんの家の屋根の上でパリノが鳴いていた。下では、犬が吠えている。ブルブル怖そうにしている。こっち、こっちと呼びかけて、手を伸ばしていると、チョンチョンチョンと手の中に飛び込んできた。 

あ~、あ~、あ~、よかった。今頃、パリノはどんな夢を見ているんだろうか?

ワヤン(影絵芝居)の絵本 (2009/07/08)

先日、福音館書店から絵本が届いた。数日経って、乾千恵さんからも届いた。 

「山からきたふたご スマントリとスコスロノ」 
http://www.fukuinkan.co.jp/detail_page/978-4-8340-2452-4.html 

千恵さんとご両親が日本へ帰ってきたのだ。本は出来立てのホヤホヤ。2009年6月20日発行。ちょうど本が出来上がる頃、ジョグジャカルタで「ワヤン・フェスティバル」があり、乾家のみなさんはそれを見に行っていたのだ。去年に引き続き、ジョグジャの我が家に滞在された。電話で話した千恵さんのお母さんによると、宇宙支配の神様(ブトログル)の思し召しで、今回も奇跡の連続のようにいろんな方や出来事に遭遇されたそうだ。 

僕が初めてジャワでワヤン(影絵芝居)を見たのは、1992年。泊まっていたソロの宿ジョヨクスマンからGL-PROというホンダの125ccのバイクに乗ってクラテンの村を目指した。近くに着いたようだが、田舎道は真っ暗で、会場が分からない。何せワヤンは厄よけなどのために個人の家で行われるので、目印がない。道端で、歯だけを浮かび上がらせて暗闇に溶けこんでたむろする若者にたずねたが、なんだか要領を得ない。気の良さそうなおじさんに声をかけると、ジャワ語でチンプンカンプン。当時の僕は、ジャワ語どころかインドネシア語も片言だった。それでも、何度も聞いたり、土の道に地図を書いてもらったりして、だいぶ接近してきたようだった。 

バイクのエンジンを止めると、田んぼではカエルが鳴いている。夜風が涼しい。と、かすかに風に乗って、ガムランの音が聞こえてきた。音をたよりに近づいていくと、グンデルの音、ダラン(人形遣い)の声、そして観衆の笑い声が聞こえてくる。こんもりとした木々の向こうにはテントがあり、白熱灯が光っている。眼鏡をかけ、ひげを蓄えたダランが手に持った人形をクルッ、クルッと放り投げては見事にキャッチする。白い幕の前に置かれた大きな木の箱から、助手がドンドンと人形を出していく。張り付いたかと思った影は、スッと幕から離れ、別の空間へと飛んでいく。すると新しい影が彼方からピュッと飛んでくる。めまぐるしく、登場人物が入れ替わる。七色の声がそれを演じ分ける。ホォ~~、朗々と歌いはじめたかと思うと、足の指に挟んだ小槌で、金属の板を打ち付け、ガムラン奏者たちにキューを送る。一斉に20人近い奏者が船出のようにガムランを漕ぎだす。夜半過ぎの道化が出て来るシーンでは、歌手の女性やお客さんにもちょっかいを出して、大爆笑をとる。そして、物語は、丑三つ時を佳境へ向けて進んでいく。明け方までダランの八面六臂の活躍は続くのだ。 


あとがきで、日本ワヤン協会の松本亮さんがあるジャワ人言葉を書いている。 
「よく外国のひとは、ワヤンはガムラン音楽や人形が美しい、と言います。でもそれだけじゃないんです。むしろそれは二の次で、ジャワ人たちは、ほんとうはダランの語る物語を聞いて、徹夜のワヤンに心をしめつけられたり、涙をながすのです。」 

スマントリとスコスロノのふたごの物語。心がしめつけられます。車いすの千恵さんと、そしてきっと2人3脚でお母さんも一緒に作り上げた絵本。千恵さんのような人がこの物語を紹介することにもきっと宇宙支配の神様の働きがあるんだろうな。

ビリージーン (2009/07/02)

「ビリージーン」が発売された1983年、僕は中学2年だった。こんなにカッコいいダンスがあるのかと、友達の塗本クンとよく真似をした。 

訃報を聞いて、you tubeで映像を繰り返し見てみた。何に引きつけられたのかと。今見ても、本当にカッコいい。そして、僕が考えるいいダンスやジャワ舞踊ともたくさんの共通点を発見した。脱力していて、音や衝動に突き動かされた一点を起点に動く。舞台の空気、気配を感じ、それが見るものに伝わるダンス。プロモーションビデオ、ライブ映像など見比べてみた。顔が変わっていくので、映像の年代がすぐ分かる。「オフ・ザ・ウォール」までのものは、歌手マイケルが曲に合わせて踊っている感じ。「ビリージーン」では、ダンスと音楽が一体化しはじめている。最近のになると、一般的にはダンスの完成度が上がっていると言われているが、僕にとっては、衝動的に踊る感じが少なくなってやや物足りない。80年代の「ビリージーン」は、どの映像を見ても、野生のカモシカが自分の力に身震いするように、何者かにおびえるように、神経を研ぎすませ生き生きと躍動している。しかし、90年代以降も、マイケルは、この曲で自分のダンスの多様性や自由度の限界にチャレンジしているかに見える。群舞をせずにソロに徹している。天才的な素材が、段々とテクニックを身につけ、ライブで自由自在にダンスしはじめている。テクニックの進歩による過剰な演出と衝動から来る素朴だけれど切実なダンスとがせめぎあっている。 

「ビリージーン」でのマイケルは、振り付けを踊っていない。いくつかの振りのパターンを、ポケットやベルトに武器を忍ばせるようにからだに携えて、音楽や観客の興奮をその場で感じつつ、繰り出していってる感じなのだ。もちろん、巨額なマネーが投じられたショービジネスなので、予防線は張られている。例えば、前奏が始まってからの一連の部分。スポットの輪にスルリと忍び込み静止。ビートの律動に共振し腰が動く。左右にキックを入れ、クルッと旋回し、左右に足を組み替える。少し湾曲して傾いて直立し、重力に合わせてからだを一気に傾け、足をクロスしながら、帽子を飛ばす。あ~完璧!この部分はこうでしかありないので、どのコンサートでもほぼ変わらない。それ以降は、メロディの部分、サビへの移行部分、サビの部分、間奏ビートのみ、間奏ギターあり、など大雑把にとらえながら、武器を繰り出していく。即興だが、一定のルールがあり、曲の進行とダンスが相乗効果を作っていく。歌うところ。伸びやかに走るところ。盛り上がりに向けて急を告げるところ。盛り上がりの中の静寂。間奏でのテンションのキープ。そして最終兵器ムーンウォークが生み出すダンスのクライマックス。

即興的に踊りながら、自分も楽器の一つとして参加している感じなのだ。時折繰り出す叫び声、しゃっくりがビートを超えたビートを刻む。観客の声が場を揺り動かす。 

繰り出される武器は、例えばこんな感じ、 

サイドへのキック 
正面へのキック 
少し重心を落としての左右へのステップの組み替え 

その場でつま先を床につけてのかかとを旋回させるステップ 
その場で1回転  
その場で何度も回転 
つま先立ちでストップ 

髪を直す 
耳をそばだてる 
首を前後に振る 左右に振る 
手のひらを前に向け掲げる 
どこかを指差す 
帽子を直す、投げる 
手袋を付ける、直す 
ジャケットを着る、直す、裾を払う 
ベルトを直す 
ズボンをたくし上げる 
股間を押さえる 

その場でおしっこが我慢出来ないように飛び跳ねる 
その場でうずうずして我慢出来ないように駆け足する 

スキップして走り回る 
足を引きずるように歩く 
モデルのようにつま先をひらひらさせて歩く 

これらの武器を、衝動と音楽と場の気配を察知しながら、というか察知する直前くらいのタイミングで繰り出していく。そして、光と音と大観衆と一体化していく。 

「言葉でより、ダンスの方がコミュニケーションしやすいんだ。」というようなことをマイケルが言ったと、中学生だった僕は記憶している。そのことの意味が段々分かってきた。マイケルが進んだ道とは、ちょっと違う道かもしれないが、僕は僕なりの新しい武器を探したいと思うし、あるいは、時には、集めた武器を全部投げ捨てなければならないこともあると思っている。