参加者で哲学者・音楽家で大学院生の菊竹智之さんがレポートを書いてくれました。

「白い光」は2015年、「白い光2」は2017年に、箕面の森アートウォークで発表されました。

 

白い光 

https://momoetyuki.tumblr.com/post/166797896487/白い光

修験道の開祖役行者は、生駒の山を開いたあと、山頂から北西の方角に、白い光を見た。光を辿っていくと、そこには大きな滝が流れている。役行者は霊験あらたかなその地に寺を建立し、山を開いた。

 

この役行者の伝説が、佐久間新さんのパフォーマンス「白い光」のモチーフ(の一つ)になっている。

光や音を介してひとが遠くまで想いを馳せていく。それも生身の身体を使ってやる。あえて一言で(二言だけど)言うなら、そういう作品だ。

 

今回は

・鏡を服にまとったミラーマンのダンス

・鏡と音による遠隔通信

・石の音楽、石のダンス

・言葉、手話と体で水と戯れる

・水を還す

といった要素を組み合わせて、その目標に近づこうとしていた。

 

正直に言うと、ぼくは1回目の時ほど気が乗っていなかった。1回目の時は、おそらく佐久間さん自身も、さまざまな発見が立て続けに起こって興奮気味で、その熱気がこちらにも伝わってきていた。今回は2回目ということで、佐久間さんにも色々悩みがあっただろう。

白い光1はたしかにすごく面白い作品だったのだけれど、何がすごかったかと言うと、ひとつには、その構図の美しさがあった。

 

滝でラッパが鳴る。それを合図に、「光」たちが鏡を持って箕面の山の展望台同士で呼応し出す。光たちは反射し合いながら大阪平野へ広がっていく。生駒から出発した役行者の鬼たちはその光を感じながら箕面を目指し、鬼と光が出会うと、再び光たちは滝の前に集まり、踊り出す。

 

生駒ー箕面間という一つの世界があって、その間で行われる光の呼応が無数の乱反射のように大阪平野の中で反復され、最後には滝の前に凝縮していく。とても美しいマクローミクロコスモスの入れ子構造であると同時に、光に物語の流れがある。そしてそれが1000年以上前の伝説とつながっている。近い時期に曼荼羅をテーマにした作品をやったことも関係あるのだろうか、曼荼羅っぽくもある。

これはパフォーマーというよりもむしろ美術家とか批評家とかコンセプトアートとかをやっている人にウケるんじゃないかな(ちなみにぼくもそういうのには弱い。ピラミッドとか好きなひとは多分好き)。と思っていたら、案の定、箕面の森アートウォークの主催の美術家のご夫妻が非常に気に入って、「リベンジしてください!」と言われたらしい。佐久間さんは「別に失敗してないんだけどなぁ」と漏らしていた。

 

ともかく、そんな風にコンセプチュアルなところが前回の面白さのひとつだったのだが、今回はややそういった構造的な面白さはやや見えにくかった。石をなんで使うのかとかいまいちよくわかっていなかったし。

しかも、当日は思いっきり雨だった。雨どころか、台風がもう九州の南まで迫っている。ずぶ濡れになるのが目に見えているので、もう起きた瞬間から毎分、「中止します」というメールがきていないか確認する。きていないので、仕方なく箕面まで行く。

みんなやる気が下がっているんだろうと思っていたが、しかしそこは佐久間さん、やはりアーティストである。

「ちょうどいい天気ですね。滝とか水と一体化するにはこのくらいの方がいい。光も、より少ない光をキャッチしないといけないから、繊細になれる」とか言い出した。付き合いの長いなほさんが佐久間さんのことを「意地っ張り」と言っていたが、本当に意地っ張りの子供みたいだ。しかし、その言葉の中には、騙されてみたら確かに面白いだろう、と思わせるものがある。屁理屈のようだけど、説得力がある。

 

詳細はめんどくさいので書かないが、そんな気持ちで参加した白い光2はやはり白い光だった。

実際コンセプチュアルな面白さはへったかもしれないが、その分今回は、箕面の山とどっぷり取り組むような面白さがあった。光の通信をしようとするとかかってくる白い霧のスクリーン。遭難事件(私が)。輝きを放ちながら降りてくる滝の水と光を返しながら登って行く私たち。

山のこだまと人のこだま。

この山「で」遊んでいるのではなく、この山「と」遊んでいる。そんな実感を覚える。そしてそれが山の歴史や伝説とも結びついている。

 

本当に大雑把な感想だけど、これがアートの面白さなのだと強く思った。

山と遊んでいる感覚。光を反射しながら動いているという感覚。水のようになる感覚。こうした感覚の新しいレイヤーが、アーティストのちょっとした言葉や、ちょっとした身体の動かし方のコツやちょっとしたアイデアで、突然ひらけてくる。新しい地図がひらけてくる。

それは単なる非日常ではなくて、佐久間さんというアーティストが組み替えた別の現実だ。

白い光というこの企画も、ある日突然に生まれたわけではない。江戸時代の米相場の旗振り通信をモチーフにした遠隔通信ダンスや、ペットボトルダンス、そこに大昔の役行者の伝説のモチーフが結びついて、初めて生まれたものだ。

表現の探求の積み重ねは、一つの磁場のようなものだ。その磁場のなかでは、どんな些細な情報も別の意味を帯びる。些細な日常の偏差から1000年前の伝説までもがそこに集まってきて、結び合わさる。1000年前の人との間に、時間を遡って関係が打ち立てられる。

 

最後には、恒例の即興タイム。少人数で、ダンスの核を共有してやるので、すごく集中したいい時間だった。鏡の面、光の面を意識したダンス。連想で、鍵盤ハーモニカの「面」で踊る。水のような動き。手話。

砂連尾さんと生徒たちもきていたが、そちらのチームはわりと水風船をキャッチボールしたりして、人との交わりを楽しんでいるのに対し、佐久間チームは、わりと孤独気味に、すごく微かな石との交わりをやっていた。これだけで判断してしまうのはアレなんだけど、なんとなく2人のアプローチの差が出ているのかなと思っておかしくなった。本人同士はかなり柔軟に対応できるので、むしろ生徒(?)同士の方が極端にアプローチの違いが出るのだろうか。

水風船はペットボトルと似てはいるけれど、水のかなり違う側面に触れられそうな気がしたのでやってみたい。

 

終わってみると、はじめに少しだけいたお客さんは誰もおらず、実行委員の人たちだけが拍手を送ってくれた。

現在、地域のアートフェスはたくさんあり、その中にはその土地のことをうまく盛り込んだ作品ももちろんあるが、土地と深く関われていない作品が多いという批判もある。そんな中で、この白い光は箕面山という地を活かす以上に、箕面山と出会える作品であり、地域アートフェスティバル作品としてもとても優れていると思う。ただ、箕面山と出会えた、箕面山と遊べたという感覚が得られたのは、もちろんパフォーマーとして参加させてもらえたからという部分が大きい。観た人にとってもそれが伝わったかどうか。尋ねる相手がいなかったのは残念なことだ。

ぜひ3もやってほしいな。

 

余談だけれど、打ち上げの後、携帯がないことに気づいた。どう考えても、滝の上の駐車場で着替えたときしかない。そのことを言うと、Oさん夫妻が車で滝の上まで戻ってくれた。滝の上は真っ暗だった。車を停めていたあたりを見ても見つからない。Mさんがiphoneのライトで探してくれていると、道路側でキラッと光るものがあった。それがぼくの携帯だった。車の中でMさんが、携帯が白でよかった、黒だったら見つからなかったかも、と言う。これが僕にとっての今日の白い光だった。OさんとMさんには遭難の時といいこの日随分ご迷惑おかけしました。本当にありがとうございました。